一年。
その中の一日。
目的など関係なく
やるべきことがある。
いつも通りの、
友達がいる。
平凡な顔をした
自分がいる。
相変わらず
引き止めるのは
忘れたはずの辛さだけ。
特に何も変わらない。
一年。
一日を三六五回。
ただ続けただけのやるべきこと。
それが
全く関係ないところで役に立った。
すること自体は変わっていなくとも
している者自身は変わっている。
続けた末の「向いていない」
それもその後を変えられる
何かを一つ知れたということ。
そこからどう行動するかも自分で選べる。
行動を選ぶということは
自分の「一日」を考えること。
「一日」を考えることは
「一年」の方向を考えること。
変わらないように見える友達も
自分と同じように変わっていく。
「一日」を変えている。
変える理由は、
友達でも分かりきれない時がある。
そして時にぶつかり合う。
平凡で変わりないと思っていた自分の顔も、
写真に写った
自分の目は様々な感情を映し出していたりする。
辛さは相変わらず
私を引き止めるが
あの時に引き止めていた辛さは
いつの間にかどこかに行って
いつの間にか交代している。
三六五回目に引き止めた時には
あんたのことも見えなくなっているだろうか。
一年は、霧のように、
進んでいるのに
進んでいることを見せず、
三六五回方向を確かめて変えたりし続けて初めて、
景色が変わっていることに気づかせる。
むしろ一歩一歩景色が変わるより
変わったことを強調させるのだ。
一年とは人間が自力で手にする魔法だ。
ー善悪ー
昔の人は
性善説や性悪説という言葉を使った。
今では
どちらでも無い、人による、場合による、
そういう声がよく聞こえる。
どちらでも無い、そうならば、
私の中の黒いのは
いつ、どこで、どうして、
生まれてきたのか。
子供は皆純真無垢か。
純真無垢は正義か。
ごめんね、で済めば平和になるだろうか。
子供も時には喧嘩をする。
それは大体ごめんね、で終わる。
それは、
たまたま、その、子供達が
酷い手段を、知らなかった、からである。
無知は正義か。
結果が酷ければ
知らなかった、それでは済まされ無いことが
当然のようにある。
大事なのは分別だ、そう思った。
けれども皆が分別を身につければ平和に、、、?
分別の基準がそもそも
善悪の基準と重なってしまう。
平和とか世界規模の話でなくても
日常で
大人が、子供でさえも、
毎日、どこかで
争い、
どちらが悪いか、と
決められた文字のルールとは別に
ほとんど意識し無いうちに、
善悪のルールを作っている。
そのルールが何万通りも何億通りもあって
似たようなルールの上で動く人達は
団結し、
善く、生きている、と讃えあう。
性善説でも性悪説でも無いことは、
善悪を、決められた基準無しに
判断しなければならない、こと。
それは誰かの主観の集まりであることが多い。
皆が自分のルールに従って生きていて、
それで、皆の生の意味が満たされたら
どんなに幸せだっただろう。
自分がされたく無いことは人にしないで、の
自分がされたく無いことの中身さえバラバラな
この世の中では
多様性の意味は
学べば学ぶほど分からなくなる。
さらには1人の人間のルールまで
コロコロといろんな条件で変わってしまうのだ。
善悪などそもそもそれ自体あるのだろうか?
私は思う。
大人になってしまったのなら、
一旦ルールなど手放して、
子供ともまた違うふうに、
好きという感情を
受け止めることだと思う。
誰か、何かを好きだという感情を、
自分を、弱さも含め好きだという感情を、
誰かに認めてもらうためでは無く、
自分の生の意味として、
そのものの
暖かさを感じることだと思う。
ー無色の世界ー
私には、
喜怒哀楽の喜と楽が分からない。
いつからか感じないのだ。
誕生日とかに友達にプレゼントをもらった時も
反射的に
「どんな風に反応したらいいのか。」と
考えてしまう。
結局
ありがとうと言いつつも
多分顔が引き攣っていただろう、
わざとらしかっただろう、と
自分でも分かってしまう。
そして、大体
その次の年にはプレゼントをくれなくなるのだ。
悲しみ、とかいうマイナスの感情だけはあるから
泣くことはできる。
でもその涙は
笑顔に変わってくれない。
これじゃ何の意味もない反省だと思う。
私は
「みんなと一緒に楽しむ」ということが
すごく苦手だった。
でも、空気を読むことはできたから
友達とかクラス全体とか部活とかで
集まるよって時はよく行った。
でも、それはみんなの言う「遊びに行く」ためじゃない
ただの「付き合い」。処世術だった。
楽しんでるふりくらいはできるし
友達の言うことに笑うことだってできる。
プレゼントを渡される時とは違って
そこまで反応を期待されていないからだ。
でも、
ホントは楽しくないのだ。
家族はこんな私に
冷たいとか変とか言った。
私は本当に喜楽が無いのか。
これがやりたい、と言ったことを
親はあんたにはどうせできないと言って辞めさせた。
自分がこれが欲しい、と思って買ってきたものを
親はこんなものを買ってとその後もずっと
馬鹿にするようになった。
これが好きだって言ったものを
同級生に馬鹿にされた。
自分自身を
同級生に馬鹿にされた。
多分こういうものの積み重ねで
自分の感情を表すのが怖くなったのだと思う。
こういうことって
繊細な人にはよくあることなんだと思う。
大人になって、
私は
塾の講師をし始めた。
コミュニケーションは苦手だったが
仕事って割り切ると全然苦でも無く、
むしろ楽しかったのだ、楽しかったのだ、
仕事が出来れば良い、
「楽しまなくていい空間。」
この無色の世界が楽しかったのだ。
ー桜散るー
桜が咲く季節は
始まりの時期。
色々な期待をしたりもするが
初めはしんどいことも多い。
桜はその暗い気持ちを照らすように
花びらを揺らしている
今年は桜が散るのが早かった。
でも、
私が
新しい生活に慣れるのも
今年は早かった。
役目を終えたように
一面は新緑に変わる。
私は新緑が本当に好きだ。
植物が生きるために
多くの光を受け止めるのは
桜が散った後だ。
私が生きるために
多くの光を受け止めるのは
不安を乗り越えた今だ。
この素晴らしき日の始まりから
光を、
しっかりと、
どんな高級なプレゼントよりも
大事に包み込んで
そして、いつか、
自分と、他の誰かに、
光を与える花を咲かせよう。
ー夢見る心ー
とても好きな歌手に憧れて
風呂場で歌を歌う。
大っきいステージで歌うなんて妄想をしながらも
カラオケでは恥をかく。
そして安定してない仕事だからとか
誰かから借りた言葉で自分を諦めさせる。
夢には理由なんてないのに
夢を諦める理由だけはやたらと思いつく。
結局今まで通りでさ
変化を怖がってることも
分かってるのに、、
変わりたくて
なんか足りない、足りない、足りない、の繰り返し。
誰かから認められたいと背伸びする自分にも
飽きてさ。
頑張れとか諦めるなの言葉も
響かなくて。
なんか違う、違う、違う、の繰り返し。
ずっと頑張ってきた勉強も「それだけじゃ役に立たない」
どうしてそんなことを
夢を見れたあの時に教えてくれなかったの?
どんな私がいいんですか?
結局、個性なんて言葉など通じない現実
常識、普通、正解?それは一体誰のものなんだ
学歴なんて
儚夢からさほんとは覚めないといけなくて
青春なんて
泡夢からさ覚めているのに気づいてなくて
あぁ、また
頭に浮かんだあの頃の夢と歌を口に出せずに夜任せ