一輪の花
前略
先生、ずいぶんご無沙汰しています。
先生はお変わりありませんか。ご家族もお元気でいらっしゃいますか。
実は先日、駅であなたをお見かけしました。橋本の近くの駅です。
その日はとても疲れていて、もう何も考えられないと思っていました。夕飯も、もしかしたら食べないつもりだったかもしれません。
だけどあなたがホームに並んでいるのを見て、ああ、先生だと思いました。それで、今日帰ったらちゃんと掃除をして、ご飯を作って、入浴剤を溶かしたお風呂に入ろうと思ったんです。
わたしは先生のいらっしゃる列とは違うところに並んでいましたから、先生はお気づきになられなかったでしょう。
それでいいのです。
王達の駅に着いたとき、ふと、閉店間際の花屋が目に入りました。
もうお花は少なかったけれど、つい立ち寄ってみました。
フリージアという花です。そのときのわたしにはその黄色がとても素敵に見えて、一輪、買ってみました。暗い家路に、明かりが灯ったようでした。
先生、あなたがあの日、どんな思いでおられたのか、わたしにはわかりません。
だけど、これだけはどうしても伝えなくてはいけないと思うのです。
あなたのおかげで、わたしは今、幸せです。
と。
草々
夜空を駆ける
太陽が沈めば、俺たちの世界。
月を覆い隠すほどに、流星さえも追い越すほどに、俺たちは自由になれるんだ。
赤く回るサイレンを嘲笑う。無力に発砲される銃弾に同情する。お縄につけ、だ?
誰がついてやるかよ、ばあか。
俺たちは自由だ、自由だ、自由だ!
カチッ。
どおぉ……ん。
それは一瞬の出来事だった。
ああ、ミスっちまった。仲間と顔を合わせる。
わりぃな。ここまでだ。
高価な美術品も木っ端微塵に砕け散る、玉砕覚悟の捕獲作戦。まんまと引っかかった俺たちは、自然と笑みをこぼした。
楽しかったぜ、来世でまた会おうや。
無言で、互いのこめかみに銃口を当てた。
ぱあんと弾けて、俺たちの破片は夜空を舞った。
いい気味だぜ、なあ? 俺たちは自由だ、自由だ、自由だ!!
世界の地も空も駆け回って、生きた。そう、生きていたんだ。わかるか?
今夜、お前が見上げる空を駆けるのは流れ星なんかじゃない。俺たちの血肉さ。
あなたは誰
わたしは寿ん。「ことぶきん」じゃなくて、「じゅん」と読みます。
……呼び方?どう呼んでもらっても構いませんよ。なんなら、「ことぶきん」でも別にいいんです。
こだわりは特にありません。
あなたに呼んでいただけること、それが嬉しいだけなのです。
君の声がする
「好きになってごめんね」
別れ際、君はそう言って笑った。
俺にはわからない何かが、きっと君の心にあったんだろう。
「−−−あの、さ」
思わず引き止めてしまったのは、たぶん、そういうことだ。
「ごめん。……ありがとな」
君はちょっと目を丸くして、それからみずみずしい目を細めて
「ん」
とだけ頷いた。秋の風がふたりのあいだを吹き抜けていった。
君はまた前を向いて歩き出す。その背中が震えるのを見てられなくて、俺もまた早々に背を向けた。
少し歩いて、君の声がした気がした。振り返ると、君の姿はもうなかった。
俺は前を向く。君がそうしたように。
そして、もうじき背中を震わせて声を押し殺して泣くのだろう。君が、決して俺に見せなかった姿を。
もう君の声はきこえない。
そっと伝えたい
何の言葉もいらないくらい、あなたと通じ合っていたならどれほど。
偶然、駅で鉢合わせして、私の胸がどんと揺れて。あなたは「うお、また会ったなあ」とかにこにこ笑って。
もしも今日、これを渡してしまったなら。そうしたら流石に気づくのかな。それとも、もう本当は気づいているのかな。
嫌んなる。あなたのなかに私がいないことくらい、とっくに知ってるのよバカ。
他のより丁寧にリボンを巻いたチョコレートに、あなたは気づいてしまうかもしれないのなら。
やめた。
いつか伝えるなら、それはそっと風に背中を押される日がいい。ふんわりと伝わるときがいい。
あなたと「偶然」出会える電車を見送って、私はリボンをほどいた。きれいに結んだ心もほどいてしまいたかった。
「甘い」
チョコレートの甘さは、あなたも私も癒すことは、きっと出来ないのね。