「静寂に包まれた部屋」
午前6時56分。ほの暗い教室に明かりをともす。かじかんだ手をこすりマフラーを脱ぐ。
午前6時59分。そろそろかな、見計らって廊下に出ると左折。すると間もなく、
「福井?おはよう」
背中にかかる声。
「今日も早いなあ。あ日誌なら持ってきたで」
振り返るとその人はもう教室に足を踏み入れていた。
「はよ入り。寒いやろ廊下」
後ろに続いて教室に入ると、その人は「も〜、暖房いれぇな」と操作盤をいじる。
「寒ないん?」
寒いですーー答えると、その人は軽やかな声を立てた。
「真面目やなあ、風邪ひいたらどうするん。公募推薦は来月やろ」
はい、と頷いて席に座る。その人は、もっとサボりやあなんて笑いながら黒板に連絡事項を書いていった。
少ししてチョークを置き、ごみ箱の上で手をはたく。
「ほなな、1時間目なったらまた来るわ。勉強ほどほどに頑張って」
午前7時13分。その革靴で早足で去っていく音に耳を立てる。
午前7時20分に他の生徒が登校してくるまで、うす明るくなった教室の静寂と共に余韻に浸っている。
『彼女と先生』
「別れ際に」
花束を渡したい。
最後の最後でわがままを。
あなたに会いたい。
最初で最後の別れ際に。
その腕で眠りたい。
最も偉大な愛情だから。
「あのね」
シュー、シュー、シュー……。
「ごめんね、ずっと言えなくて」
シュー、シュー……。
「だいすきだよ」
「……」
「だから帰ってきて」
シュー、シュー……シュー……。
玄関のドアを開けて、真っ暗なリビングだけが出迎えること。荷物を投げ出して泣きわめいても、あなたは駆けつけてくれないこと。
おはよう。いってらっしゃい。いってきます。ただいま。おかえり。いただきます。ごちそうさま。おやすみなさい。
それらの代わりに花束を。お別れなんて信じない。認めない。私のそばには、あなたがいないと許さない。
だからありったけの愛をひとつに束ねて、あなたに届けたいの、お母さん。
『彼女と先生』
「秋」
『好きですか、それとも嫌いですか』
彼女に訊かれて答えられなかったことを今でも覚えている。リュックサックを背負い、夕日越しにわたしを見つめる目を、オレンジ色に染まったまつげを、頬にかかった数本の髪を。
九月二一日の、まだ暑い放課後だった。熱か暑さか、それ以外だったのかもしれない。妙にみずみずしい黒目に、わたしは何をすればよかったのだろうか。
そのまま彼女は後ろ向きに倒れた。支えることも間に合わなかった。
九月二十日の夕日は痛い。『明日です』と、囁かれる気がしてしまうから。
『彼女と先生』