cyan

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11/21/2024, 11:59:43 AM

『どうすればいいの?』



 朝の通勤ラッシュ。みんな余裕がないのか、乗る時も降りる時も前の人を押しながら進んでいく。我先にと座席に向かい、取られてしまえば「チッ」なんて舌打ちまで聞こえてくる有様だ。

 僕はそんな余裕がない通勤ラッシュが苦手だ。だから僕はいわゆる九時五時と言われる会社員を就職先に選ばなかった。右ならえみたいに、同じようなスーツを着てネクタイを締めて、この息苦しく余裕がないピリピリした空気の電車に毎日乗る勇気はなかった。

 僕は繁華街で夜の仕事をしている。といっても体を売ったりはしていない。通勤電車に乗れないほど勇気がない僕が、誰かと肌を重ねるなど到底無理なことだ。僕の仕事はキャバクラのキッチンで、フルーツの盛り合わせやちょっとした料理を作ることだ。

 勇気がない僕でもできる料理。キャストの女の子たちは優秀で、僕の仕事が遅くてもちゃんと会話で時間を繋いでくれるから、焦らずゆっくりきっちりと仕事ができるところが気に入っている。
 たまに「お客さんがフルーツのカットが綺麗だって褒めてたよ」なんてボーイさんに言われると、本当か嘘かは分からないけど、この仕事でよかったと思うんだ。

 店で女の子のバースデーや、周年記念、季節のイベントがある時などは忙しい。そんな時には、僕もキッチンから出て開店前の店内の飾り付けなどを手伝ったりする。

 僕は憧れている女の子がいる。とても綺麗で、キャストは綺麗な子が多いんだけど、彼女は綺麗なだけじゃない。凛とした立ち姿が美しかった。きっちりと巻いた髪がいつも完璧で、そしてうなじに残る後れ毛がとてもセクシーだ。

「は?」

 目が合った途端に僕はしまったと思った。まさかバレるなんて思っていなかったんだ。彼女は僕を視界に捉えて、そのまま通り過ぎるかと思ったら、一旦通り過ぎた視線を僕に戻して驚いた表情を浮かべた。
 僕は慌てて視線を伏せて、逃げようとした。

「ちょっと」

 まさか引き止められるなんて……
 背中を嫌な汗が伝った。

「お店のキッチンの子だよね?」
 やっぱりバレていた。今日の彼女はまだ髪を巻いていないし、ドレスも着ていない。だけどその立ち姿だけは凛としてとても美しい。

「そうです……」
 バレてしまったものは仕方ないと口を開いてモゴモゴと答える。

「あんた、なんでキッチンなんかにいるの? 私より全然可愛いじゃん」
「あ……僕、こんな格好していますけど、男なんで……」
 彼女の目が再び見開かれた。

 僕には勇気がない。満員電車に毎日乗る勇気も、スーツを着てネクタイを締めて毎日通勤する勇気も、人と必要以上に近づく勇気も。
 だけど譲れないこともある。僕は可愛くて綺麗なものが好きだ。他人はそれを女装と呼ぶ。でも僕にとってそれは、女の子になりたいからってわけじゃなくて、この格好が好きだからしているのであって、違うんだと言いたい。でも言えないんだ。自分でも上手く説明できない。

「そっちか〜」
 彼女の目は嫌な目ではなかったけど、なんとなく気まずくて僕は口を閉ざした。

「いいじゃん。でも生きにくそうだね」
 彼女の言葉は僕を否定するものじゃなかった。でもなんとなく下に見られた気がして、途端に気持ち悪くなって口を押さえた。好きな格好をしているだけなのに、生きにくい?
 彼女に悪気はないんだろう。
 みんなそうだ。気を遣ってくれたり、悪気がない人が大半だ。だけど僕はそれが苦しい。

「ねえ、じゃあ聞くけど僕はどうすればいいの?」

 もうほとんど投げやりみたいに、僕の口をついて出た言葉だった。彼女はなんて答えるんだろう?
 人はそれほど他人に関心がない。きっと「知らない」とかどうでもいいみたいに適当な答えを出すんだろうと思った。

「あたしの友達ってことで体験入店してみる? 何か変わるかもしれないよ」
 想像もしていない言葉が返ってきた。僕は動揺している間に彼女に引き摺られるように店に連れて行かれて、ドレスに着替えさせられて、そして胸にヌーブラってのをつけられ、髪をくるくると彼女の手で巻かれると、あれよあれよという間に店に出ることになった。

「あの子誰?」「新人?」「こっちの席にも回してよ」
 楽しかった。元々僕の声は高かったし、体毛も薄くて、男だって誰にも気付かれなかった。普段キッチンで働いていることもバレなかった。

 そこで発見したことがある。
「え? 今日はキッチンの子いないの? フルーツ頼みたかったのに〜」
「誰か知らないけど、いつもの子の料理好きなんだよね」
「店長、あのキッチンの子に逃げられるようなことしたんじゃないの? 俺のオアシスなんだからちゃんと捕まえておいてよ」
 知らなかった。僕の料理を楽しみにしてくれる人がこんなにいたなんて。

「言ったでしょ? 何か変わるかもしれないって」
 彼女は店が終わると僕にそう言った。

「どうすればいいの?」
 その問いかけを、僕は誰にもしたことがなかった。いつも、自分で自分に問いかけているだけだった。彼女に聞いてよかった。
 たった一言から、僕の生きにくい世界が少し優しいものに変わったんだから。


(完)

11/20/2024, 2:49:36 PM

『宝物』



「隼人、お前の宝物ってなんだ?」

 学校帰り、同じ絵画部の島田に唐突にそう聞かれた。この男はいつも唐突だ。そう親しくもない頃に急に僕のことを隼人と下の名前で呼び始めたのも唐突だったし、この前なんてそんな話はしたこともなかったのに「今日泊まりに行く」なんて言った。
 僕が一人暮らしならまだいいんだけど、まだ高校生の僕は実家暮らしだから家族の都合ってものもある。嫌なら断ればよかったんだけど、僕は人の考えを否定したり断ったりすることが苦手で、頼まれるとなんでも引き受けてしまう。
 さすがに「殴られてくれ」なんて言われたら断ると思うけど、その場になってみないと分からない。

「なあ、聞いてる?」
 僕がなかなか答えないものだから、島田は少し不機嫌な様子でそう言った。
「聞いてるけど、いきなり言われても宝物なんてすぐには思い浮かばない」
 僕がそう答えると、島田は「なーんだ」と言って両手を頭の後ろで組んで、興味なさそうにその辺に落ちていた小さな石を蹴った。

 島田は僕の宝物になんて、大して興味がなかった。それなのに聞いた理由はなんだろう? もしかして自分の宝物を自慢したかったんだろうか?

「島田くんの宝物は何?」
 僕は島田くんの顔色を伺うようにそう問いかけた。この質問、間違っていないよね? そんなの気にすることはないのかもしれないけど、いつも僕は何かを人に問いかけるときに緊張してしまう。質問をするということは、その相手のプライバシーに踏み込むということで、その覚悟があるのかと問われればいつもないんだ。
 質問の意図が上手く伝わらないこともあるし、相手にとって不愉快な質問になってしまうこともある。そして、質問をした時の相手の目が怖いんだ。
「お前は俺のプライバシーに踏み込む覚悟があるのか?」
そう毎回問われている気分になる。

「俺の宝物は隼人」
 島田が言った言葉が理解できず、僕はポカンと口を開けた。聞こえてはいた。だけど、宝物は何かの回答として、僕の名前を挙げるなんて思っていなかった。誰か有名人のサインだったり、思い出の何かだったり、そんなものを挙げると思っていた。やっぱりこの男はいつも唐突だ。

「隼人は俺の宝物だよ。俺の家、あんなんだろ? 大抵の奴は俺を避ける。だけど隼人はちょっと困った顔をすることはあっても、俺のことも俺の家も否定しないし、こうして一緒に帰ってくれる。だから大切な友達。唯一の友達だから宝物だ」

 島田は堂々とそう言った。島田がそんな風に思っていたなんて、僕はちっとも気付かなかった。島田はシングルマザーの家庭で、そんなの今どき珍しくもないんだけど、島田の母親はいつも男を連れている。最初に見た時はスーツを着た真面目そうな人だったけど、次に見た時は金髪を逆立てた金色の鎖のネックレスをしたヤンキーみたいな人だった。その次は太った眼鏡のおじさんだったし、もう色んな相手を見てどれが彼氏なのか分からない。それを快く思わない人は多くて、島田は孤立していた。

 島田は僕のことを一緒に帰ってくれるとか、否定しないと言ったけど、僕は断るのが苦手なだけだ。本当はそんなに優しい人間ではない。間違いは正さなければいけないと思ったのに、僕はそれは間違いだと言えなかった。いや、あえて言わなかったのかもしれない。

 僕は嬉しかったんだ。
 ──誰かの宝物になれたことが。

 だったら、間違いだと思ったことを間違いではなくすればいい。そんな優しい人間になればいい。世の中全員に優しくしなければならないわけじゃない。僕のことを『宝物』だと言ってくれる島田には、そういうことが苦手だから否定したり断ったりしないんじゃない。大切な友達だからしないんだ。
 僕は自分が弱い人間だと決めつけていた。でも、島田の言葉で救われた。「断れない人間」から「断らない人間」になった。どうせなら島田にはもう一歩だけ近づいてみようと思った。

「島田、名前で呼んでいい?」
 僕は一気に島田のプライバシーに踏み込んだ。
「今更かよ」
「うん、今更だけど、純也って呼びたい」
「いいよ」

 友達だと言ってくれたから、勇気が出た。彼のプライバシーに踏み込む勇気。
 それは彼の『宝物』という言葉がきっかけで、そして彼は僕の宝物になった。


(完)