一夜の夢

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1/17/2024, 5:13:39 PM

木枯らしがコートの裾をはためかせる。
僕は襟元をかき合わせた。
冷え込む冬の朝は、いつもより静かだ。

今日はずいぶん早くに目が覚めてしまった。
まだ慣れないこの街を昼中に歩くのは気が進まない。
しかし、早朝ならば人も少ないだろうと実に3ヶ月振りの散歩に繰り出したのだ。
あなたを起こさぬようにそっとドアを閉め、市場のある方角へ。
帰りがけに焼きたてのパンでも買って帰ろうか。

寝静まる市場をぐるりと回り、活気溢れる日中の様子を想像する。想像は得意だ。

パン屋に辿り着く。
ちょうど開いたばかりのようだ。
あなたは何のパンが好きかな。
特に好みを持たない僕の選択は、必然的にあなたの好みになる。

記念すべき住民とのファーストコンタクトをパン屋の主人と済ませ、僕はほかほかの紙袋を手に家路を急ぐ。
普通に、つまり怪しくない感じで、僕は振る舞えていただろうかと不安になった。
あまり特別な印象を残したくはない。

やっと家に続く小道に帰りつき、僕は少し安心した。
ドアを開け、ただいま、と呟いて、その言葉の懐かしさに驚く。
リビングに足を踏み入れれば、コーヒーの香りが僕を包み込んだ。

「おかえり。散歩はどうだったかな」

キッチンで微笑むあなたに笑顔を返して、紙袋を渡した。
結局店主におすすめを詰め合わせてもらった中身は、あなたのお眼鏡にかなうだろうか。

「バゲットとクロワッサンか。いいチョイスだ」

どうやら当たりを引き当てたみたいだ。
あなたの上機嫌を背中で聞きながら、冷えたコートを壁に掛ける。
僕の世界は再び広がる予感を見せていた。

1/15/2024, 2:46:43 PM

この世界は君に優しくない。
優しい君は、棘だらけの世界を抱きしめる。
ヤマアラシを裸で抱きしめるようなものだ。
自分の流した涙に溺れそうになって、必死に不規則な呼吸をしている。
贖罪する罪人のように。
子を無くした母親のように。

私は君の両目を手で覆う。
瞼の下で忙しなく動く眼球が君の動揺を伝えてくる。
君がすべてを捨てられないのなら、私が君から奪ってあげよう。
君に見せたい、美しいものがある。
君も美しいと思ってくれるだろうか。

波音が響く。
足元は断崖絶壁。
君の涙が作った海は、悲しみと諦めの色をしている。
優しい君を、優しくない私が抱きしめる。
もう世界を見つめない君の瞳は、今は私の理想を映していた。

1/14/2024, 2:25:16 PM

僕は呆然と立ち尽くしていた。
僕の宝物。
誰にも、特にあなたに見つからないように大事に隠しておいたのに、今や見る影もない。

「やあ。遅かったね」

帰ってきた僕に気づいたあなたが顔を上げ、気のない様子で弄んでいた僕の宝物を放る。
嬉しそうに笑っていたあなたは、僕の異常を見てとると困惑したように少し目を丸くした。

「どうして君は泣いているのかな」

あなたの榛色の瞳が心底不思議そうに僕を観察している。
ああ、ほんとにわからないんだな。
僕は怒りや呆れを通り越して、いっそ哀れに思った。
それと同時に、自分と異なる生き物に対する身がすくむ恐怖を感じた。

「…わからないなら、いいです」

洟を啜って、僕はそう言う他なかった。
一刻も早く、この相容れない存在から離れたかった。

「教えて。どうして泣いているんだい」
「いいです、もう。早く出て行ってください」
「君を知りたいんだ」

知らぬ間に近づいてきたあなたは、僕の頬に手を当てて至近距離から目を合わせた。
僕の一挙手一投足も見逃すまいとしている。

「あなたはかわいそうな人だ」

ほとんど吐息のように漏らした言葉はあなたに届かない。
僕は震える瞼を下ろし、世界を向こうへ押しやった。
やがて、興味を削がれたあなたが離れてゆく。
上等な人の皮を被ったあなたは、遠ざかる足音さえも質が良い。
ドアが閉まって、たっぷり3分経ってから僕は目を開けた。
また涙が頬に幾つも筋をつける。
僕の宝物。
かわいそうに。僕も、あなたも。

1/14/2024, 9:49:54 AM

ワルツの調べに乗せて、オーガンジーのドレスが揺れる。
暖炉に燃える炎のおかげで、ダンスホールは暖かだ。
1・2・3、1・2・3、ステップを踏む。
リズムに乗って君はくるりと回る。

夢を見てたいの。
目を閉じて君が笑った。

レコードが止まりそうになる度に始めに戻し、僕らは踊り続ける。
濃い霧が立ち込める湖と広がる森が窓から見える。
僕らは踊り続ける。

君の腰に回した腕も、ステップを続ける足も、くたくたに疲れているけど。
君の目が覚めるまで、ワルツは続く。
僕らは踊り続ける。

1/12/2024, 12:57:59 PM

ずっとこのまま、二人でいたいね、と心底幸せそうにあなたは言った。
あなたが望んだことはすべて、真実になる。
だから僕たちはずっとこのまま、二人でいるんだろうなとぼんやり思った。

あなたの褪せた金色の髪に月光が踊っている。
僕らは真っ黒に染まった体で、まるでこの世に二人きりのように見つめ合った。
頬を撫でるあなたの手が、首に鼻先を擦り寄せるあなたの息遣いが、僕をがんじがらめにしていた人間的なものを一つ一つ引き剥がしていく。

今はすべて見えている。
過去も、未来も、あなたの中の怪物も。
美しかった。
僕は、あなたのくれたすべてを素晴らしいと褒め称えた。

あなたの願いを、現実にしなければ。
僕は揺らめく暗がりの底に潜む永遠へ、一歩を踏み出した。
あなたは笑って僕を抱きしめて、僕の傾きに嬉しそうに従った。
最後に見えたのは、きっとあなたの瞳だった。

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