静かな情熱
授業中、先生が白のチョークで黒板に文字を書く音と、クラスメイトたちがシャープペンシルでノートにカリカリと板書する音のみが響き渡っていた。
「じゃあ、ここの問題を-今日は四日だから、四番の石上。」
小、中学校ではやたらと意欲のある生徒挙手をし、その中から誰か一人を当て、解答させるやり方が普通だったが、高校生になってからは意欲の有無や、手を挙げる挙げないや、そもそも問題の答えが分かるか分からないか諸々関係なく、問答無用で指名されるのが当たり前の光景になってしまった。今みたいに日にちで指名してくる先生ならまだいい。内心よろしいわけではないが、今日の場合、名簿番号四番と一の位に四がつく人が優先して当てられるのが目に見える。つまり、その日に自分が当てられそうか否か大体予想がつくのだ。ついでに答えないといけないっていう、ちょっとした覚悟の時間ももらえる。しかし、例外も一部存在する。ある先生は月と日付の数を足して出た番号で、またある先生はもとの数を倍したり、二乗した数の順で指名先を決めるなんてこともあった。
なお、無論僕は積極的に意見を出すタイプでもないし、意欲と理解を示すために手を挙げるなんていうタイプではなかった。というかこの高校で、各担当の人のやり方で当てられるっていうのもちょっと嫌だ。まあ、やる気や分かろうとしているっていう姿勢が認められて、成績とかにプラスされるのであれば、それに越したことはないけれども。こう言っておいてはなんだが、僕は僕が分からないものを理解できないまま放置しておくようなタイプではないと思う。というか分からないままってなんか不思議と悔しさを感じる、でも勉強することが得意ですとは胸を張って言えないし。
この分からないままは嫌だっていうのがきっかけで、自分なりに分かりやすいようにメモをとるようにしている。メモ帳に先生の話したこと全てを書きなぐるっていうわけでもなく、とりあえず、この発言とかこういう要約したらわかりやすいかもって思ったことをプリントやノートの空白に書いておいているのだ。
テスト期間が終わり、提出していた課題が返却された。あの山みたいに積み重なった課題全てを、不備がないかどうかチェックするのには骨が折れるだろうに。ひとまず不備がないか、再提出になっていないかどうか、ページをパラパラとめくって確認していく。一件付箋が貼られていなくても、不備はあるよなんてこともザラじゃあないからだ。最後に残った英語の課題のテキストを、範囲になっていたページを確認していく。最後のページには他の課題と同じように可愛らしいスタンプが何かが押されているはずだ。まさか、ちょっぴり嬉しい形で裏切られるとは思わなかったが。
『いつも丁寧にメモやポイントを書いてあるのがGood!』と。案外しっかりと頑張った所を見ていてくれていたんだなと気づいた。
風が吹き、桜の木々が揺れ、どこからの木がひとひら、また別の一本からひとひらと桃色の花弁を散らしてゆく。儚くも美しい春の光景は、雫を落とし、波紋を広げる水面の連なりに近しいのかもしれない。また、体育館に大勢の生徒が集まり、集会開始前の各々の会話で溢れかえるあの時間に似ていたのかもしれない。
これから思い出の詰まった母校を立ち去る私には、今後一切見ることのできない光景なのだろうけど。
卒業式はもう終わってしまった。私と仲のいい友だちも、お世話になったり、絶対に波長が会わないと思った先生方も、私がよく知ることのできなかった、面識すらない同級生たちも、行事や部活で関わった後輩たちも、我が子に寄り添い、共に涙を流す保護者たちも、ありとあらゆる人たちが、まだこの場にいた。誰かが帰ってしまったような感じはしなかった。でも私は知っている。あと少し、長いようで短い時間が経ってしまうだけで、本当のお別れの時間が来てしまうことを。
みんなが別々の方向を見据え、新たなスタートラインに立とうとする時間が来ないことを祈った。ふざけ合う日々が、時には真剣になって、みんなで協力し合って物事に取り組もうとする、あの色濃い、鮮やかな日々を紡いでいたかった。でも時間は、流れは強制的な別れを許してはくれない。
傍にいた誰かがいなくなる。そんな寂しさを抱えている時に、ふと桜に目を向けてしまったのが間違いだったのだろうか。ひとひらずつ花を散らしていく様子を見ていると、まるでこれから散り散りになっていく私たちみたいだと錯覚してしまって、目から溢れた涙が頬を伝った。