力が欲しかった。
誰からも一目置かれ、畏敬される騎士になりたかった。
たとえ、闇に堕ちてでも。
だから俺は闇を眷属に従えた。人の心を喰らう魔物。一度取り込めば後戻りできないことなど全く意に介さなかった。俺なら使いこなせるという自負があった。
強烈な一撃を喰らって臓腑に熱が迸る。
地面に強かに打ち付けられると、激痛に意識が飛びかけた。もう顔を上げることすらできなかった。
「二度と俺の前に立つな」
遠ざかる足音。俺はなすすべなく夜の空を見ていた。
埋まらない力の差。歴然たる実力差。まるで敵わない。勝てる気がしない。
俺は、間違っていたのか。
そんな疑問がよぎって体が砕けそうになる。
視線を下げると、闇に侵蝕された右半身があった。
あの時の自分が下した、決意の呪縛。
じわじわと蝕む呪いがすぐそこまで来ている。
もう逃げることはできない。
俺は血の涙を流し、やがて意識を失った。
時計塔から鐘の音が聞こえた。
僕はラボのソファで眠りこける女性に声を掛ける。
「先輩、起きてください。もう12時です」
「……ん……なに……」
「12時です。正午ですよ」
「……あ」
「どうしました?」
「……昨日と明日のまんなかだあ」
新事実を発見をした、みたいな満点の笑顔を浮かべた彼女は、ゆっくりと瞼を閉じる。僕は慌てて話を繋いだ。
「昨日と明日といえば……明日っていい響きなのに、昨日ってあまり響かないですよね。今日を基準にすれば同じ距離なのに」
「んー……そうだねえ」
「なんでなんでしょうね」
「それはねー、明日に向かって進んでるからだよ」
夢うつつで言った彼女は、まもなく寝息を立てはじめた。僕はぽかんとして、それからドップラー効果、という単語に思い当たった。救急車のサイレンが近づいてくる時は高く聞こえ、離れていく時は低く聞こえる、あの現象だ。
僕はそっと息をついて、上げたばかりのブラインドを落とす。理論や理屈が主食の先輩は、眠くなるとなぜか空想的になる。不思議なことだけど、僕はその感性を買っていた。
夢の中の先輩はどんなだろう。一度会ってみたいものだけど、それはそれで少し困る。先輩に対するこの感情を見透かされるような気がするからだ。
展望台から望んだ池は水面に緑を映していた。
それがあまりにも綺麗だったから、
もっと近くで見たいと思った。
茂みに分け入り、薄暗いぬかるみを行く。
池のほとりに辿り着いた時には、
靴がすっかり泥だらけになっていた。
目の前には、澄みわたった静かな池。
そろりと覗き込むと、透き通った水の向こう、
ゆらゆら泳ぐ魚やキラキラ輝く石、
見たことのない神秘的な世界が広がっていた。
夢中になって眺めていた僕は、ふと展望台を振り返る。
遠く、写真を撮る人たちの姿が見えた。
みんな、どうして降りてこないんだろう。
この光景を見ないで帰るなんて。
僕は池の底に目を戻す。
なんだかもったいない気がした。
うららかな五月の昼下がり。
乗り慣れた車を降りると、そよ風が私たちを迎えた。
眼下には、新緑に彩られた山々と快晴の空。
「いい景色だね」あなたは私を見て微笑む。
「緑がよく似合ってる」
「そうかな。ありがと」私は少し照れてしまう。
あなたには青が似合ってるよ。
素直に言うのが恥ずかしくて、代わりに写真を撮る。
家に帰ったら、良い写真でしょ、って見せるんだ。
手すりにもたれて、二人揃って景色を眺める。
私が山なら、あなたは空。
そんなことを思う。
二人合わせればどんな隙間も無くなって、
この世界の全てになる。
「何してるの?」
「ううん、なんでも」
あなたは不思議そうな顔をする。
私はなんとなく嬉しくて、稜線をなぞる。
全部を分かち合えたから、
二人でひとつだと思ってた。
別れて初めてわかった。
俺たちはべつべつの生き物だってこと。