私から誰かへ
誰かから私へ
この世界には、届かない思いで満ちている。
日本では、自分の届かない想いを「恋」という言葉で表現された。
しかし、親の心子知らず、といったように、この世には恋に限らず伝わらない気持ちであふれている。
この気持ちは、何故、あるのか。
伝わらないなら、意味はないのに。
わずかに伝わった気持ちを、大切にするためなのか。
人生も後半になり、特になにをなしたわけでもない身となって思います。
あなたは何故、我々を生んだのですか?
我々の使命は、何なのでしょうか?
世の生き物達は、特に誰になにを説かれることもなく、生きて増えて死に減って生きます。
人間は、悩んで悩んで、迷って迷って、毎日我慢して暮らしているように思います。
それとも、聞こえないだけで、虫達も動物達も、実は「自分たちは何故生きているのか」と問うているのでしょうか?
我々の使命は、何なのでしょうか?
ただ愚かなことを繰り返し、統計的に現れる優れたもの達によって積み上げられた知恵と知識によって、砂の城のように文明を組み上げては崩れ。
これが我々の使命なのでしょうか。
一万年もたてば、人間の文明などほとんど何も残っていないでしょう。
何も残せない。
やはり、無神論者の言うように、あなたは存在しないのでしょうか。
そして、我々を見守る存在もいないのでしょうか。
神様。
ただ、返事を待つ我々は、やはり、愚かなのでしょうか。
それは今の私。
「できる訳ないでしょ」「身の程を知らなきゃ」「このくらいやらなきゃ」
周囲に認めらられるため、我慢に我慢を重ねていく。
やりたかったことを我慢し、やりたくないことをやる。
周囲からこれもこれもと押し付けられ、やりたくないことはどんどん増えていく。
好きな人にはアプローチできず、歳だけとって、親や世間体のために、別に好きでもない人と結婚する。
子どもの世話と会社を行き来する日々。
休みの日も習い事や試合。PTA。休日出勤。
嬉しさとは、幸せとは、もうわからなくなってしまった。
最初は、「馬鹿にされないために」「一人前になるために」我慢を始めたはずだったのに。
やりたいことをなにもせずに、ただ苦しい日を送るだけ。
愚かにならないため、馬鹿にならないため、「間違えないため」にやってきたと思ったのに。
むしろ、バカになるべきであったか。
下手でもやりたいことをやるべきだったし、身の程を知らなくても好きな人には近づくべきであった。
ほら、歌でも言っている。
「命短し、恋せよ乙女。
明日の月日はないものを。」
馬鹿にならないようにして、人生そのものを雑務でつぶす。
まさに、馬鹿みたい。
この文章は適当な随想です。筆者の誤解が含まれている可能性があります。
日本語に愛という概念ができたのは近代に入ってからであり、それまでの「愛」と言う言葉は別の意味を持っていた。
また、現代においても、「愛」と言う言葉は英語ではラブ、フィリア、アガペー、エロスなど複数の意味を一つの「愛」と言う言葉にしてしまっている。
この中で、ラブは「恋愛」、フィリアは「友愛」、エロスは「性愛」と言えるが、アガペーは「神の愛」と表現され、現代日本人には今ひとつピンとこない概念となっている。
このアガペーを表現するに、誤解を恐れず言うと、等しく生きるもの達に降り注ぐ愛であり、太陽のような、雨のような、雪のような、風のようなものということではないかと思う。
これは筆者の感想であり、聖職者からすると大いなる誤解かもしれない。
しかし、ハロウィンもクリスマスもやるが初詣もする現代日本人の感性からすると、「宇宙の中で我々が生きていられる環境があることが奇跡に近い」と言うならば、その奇跡こそが「神の愛」アガペーであるという感想は、一定の支持を得るのではないかと思う。
大学合格とか、良縁とか健康とか家庭円満とかの御守りを買っても、「神様が自分を幸せにしてくれた」と信じられる人は多くないが、今生きていられる環境があるのは神の愛です、と言われれば、まあそんなものか、と思ってしまいそうである。
太陽の光を浴びて、風に吹かれて、雨に打たれる私たちがいることが、その証明となる。それくらいなら、無神論者が多い日本人も、まあそんなものか、と信じてくれるのだろう。