生まれの環境と遺伝子と才能。操作不能の運要素によって人生は最初から決まっていると捉える人は少なくない。
この考え方を仮に運第一主義とするならば、努力第一主義の人もいてその両者の考え方は対立している。
自分の意志で操作可能な努力があるのだからそれから逃げるのは自己責任という主義と、努力できるのも含めて才能で結局すべては運であり仕方がないという主義。
運と努力(非運)。しかしこれらは対立こそしているものの、人の生に付きまとう不条理に対してのアプローチの違いで同じ問題へ目を向けていることには変わりないと思う。
すべては運だと嘆く人もその根底には何かを変えたい頑張りたいという意志がある。すべては努力次第だという人も根底にはそうでなければならないという重圧がある。
運第一主義者はもちろん努力第一主義者もどうしようもないと思える不条理を少なくとも認識はしていて、それに向けて両者とも各々の切実な思いを抱いている。
だからこそ曖昧かもしれないがどちらの主義にも一貫せずその都度考えを反復するような、いわゆる中庸的な姿勢が不条理に対抗する一つの手段だと考えられる。
運に委ねながら努力する。努力に疲れたらいったん休む。心が辛くなったら運のせいにしてみる。楽になったらまた努力する。また休んで努力してそれを続けて。
余りにも地味なその姿勢が不条理への反抗だと思う。
たとえ運命論が正しいとしても、運命を信じるかどうかは主観的には定まっていないのだから曖昧でもいいだろう。
たまに運命を信じて、たまに自由意志を信じて努力する。
未だに照れてさんを付けて呼んでしまうのは
太陽のような存在だからと誤魔化した三月の日曜日
2sn(a+u)
夕方のチャイムに冠婚葬祭
自然界にない音で知らせと祈り
不自然で文化的な僕らの音 ー鐘の音ー
一人でいたい
そんな風に一度書いてしまうと
文章は一人でいさせてくれない
書いた自分と書く自分で二人
書くことは自分を他人にする
目に映るこれも他人の文章
自我そのものはここにない
ほらまたここに書くと死ぬ
感じた自分を載せられない
今一人でいたいと感じたのに
書くことで一人ではなくなる
今と書いているのも嘘だ
今と書く直前で今は死ぬ
書くことにはそういう不可能があって
どうしても過去の方向へずれてしまう
それが心地良い日もあるけど
今は今を嘘にしたくない日だ
だから、一人でいたい
(こうして書き終えることで)
ラブandベリーを黙々とプレイする成人男性の後ろ姿を眺める幼かった頃の僕の瞳は誰よりも澄んでいたと思う。
なぜそう言えるのか?
男一人でスイパラに行ってしまった経験からそう言える。
カレーとケーキをひたすら交互に貪る僕を見ていた近くの席の女子中高生たちの瞳を僕は忘れていないからだ。
あれはとても澄んでいた。