一人でいたい
そんな風に一度書いてしまうと
文章は一人でいさせてくれない
書いた自分と書く自分で二人
書くことは自分を他人にする
目に映るこれも他人の文章
自我そのものはここにない
ほらまたここに書くと死ぬ
感じた自分を載せられない
今一人でいたいと感じたのに
書くことで一人ではなくなる
今と書いているのも嘘だ
今と書く直前で今は死ぬ
書くことにはそういう不可能があって
どうしても過去の方向へずれてしまう
それが心地良い日もあるけど
今は今を嘘にしたくない日だ
だから、一人でいたい
(こうして書き終えることで)
ラブandベリーを黙々とプレイする成人男性の後ろ姿を眺める幼かった頃の僕の瞳は誰よりも澄んでいたと思う。
なぜそう言えるのか?
男一人でスイパラに行ってしまった経験からそう言える。
カレーとケーキをひたすら交互に貪る僕を見ていた近くの席の女子中高生たちの瞳を僕は忘れていないからだ。
あれはとても澄んでいた。
たとえ雨が降ろうが槍が降ろうが
たとえ火の粉が降りかかろうが
たとえ嵐が来ようとも
たとえあるある…流石に誇張過ぎる
たとえあるある…あり得ないシチュエーション言いがち
たとえあるある…実際にそうなったら逃げるのが正解がち
人は過剰さを求める
→なので秩序で抑える
→しかし反動でより過激になる
→だから定期的にガス抜き
→お祭り(擬似的無秩序)の誕生
ざっくりと解釈した「構造と力」より
めちゃゆるく言うと人はヤバい(過剰な)ことが好きだ。だからそれの受け皿としていろんなコンテンツができる。
昔よりも技術が発展してより複雑なものがより大量に。
過剰な供給によって非日常的なものが日常化していく。
サブスクにSNS、それらは現代の弱いお祭りだ。
毎日開催されることでハレとケの境目は消えてしまう。
そんな現代で実際に開催される夏祭りはどうだろう。
コンテンツとして見る夏祭りはどんなものだろうか。
日本の夏祭りはエモ産業だ。
浴衣、屋台、りんご飴、わたがし、かき氷、花火。
目に見えるものを羅列するだけでエモが成り立つ。
恋人と、家族と、独りでも。
とりあえず祭りに参加すれば雑にエモい物語ができる。
それこそがコンテンツとしての強みではないかと思う。
時代遅れの屋台娯楽を"あえて"やるのもエモい。
エモによってお祭り(非日常)価格でも屋台は成り立つ。
ぼったくりだと嘆くのも風物詩でありそれもエモになる。
体験、古い娯楽、風物詩。
純粋なエンタメコンテンツとしてみれば古くて弱くとも、
ハレとケが消えゆくネットをケとし夏祭りはハレとなる。
しかしそれもまた巡り変容していくのだろう。
祭りに飽きたら日常と名付けただけのまた別の祭りへ。
後の祭りは永遠に訪れないまま湿っぽい熱帯夜が続く。
「神様が舞い降りてきて、こう言った。」
と神様は言った。
今日も神様が舞い降りてきてお題を告げる。
その神様の名はアプリ提供元のほその夫妻だ。
調べても公式サイトやSNSが見当たらず彼らの謎は多い。
その中でも一番の謎はお題の選定基準だ。
季節や自然物、恋愛、台詞、病み、厨二病的なもの。
今までの傾向的にそのような物が多い。
しかしそれらをどうやって決めているのだろう。
傾向を見るに選定のランダム性は低く意図的に見える。
いわゆるエモを狙いにいっている節を感じるからだ。
偏りがあることでお題を通してはっきりと人を感じる。
人であることは感じるが決め方はどうしてるのだろう。
どうやらクリスマスなどのイベントの日は予め決めているようだがそれ以外の日のお題はいつ決めているのだろう。
名前の通り本当に夫婦で話し合って決めているのか。
それとも本当は一人の人物なのか、はたまた団体なのか。
謎は謎のまま、明日も神様は舞い降りてお題を告げる。