宅飲みをしているとお調子者の友人が
着ていた黒いTシャツを脱ぎ捨てて急に踊り出した
「いいよいいよー!バカみたいな踊りいいよー!」
体を叩き上げるその踊りに皆が笑いながら煽った
運動音痴の癖に踊りたがりな友人は面白い
すると友人はしゅんとして踊るのをやめてしまった
「皆を驚かせるために今日は練習してきた踊りだったのに
それを"バカみたい"って言われるとすごいツラい」
酔っぱらった友人の気難しさは最大級だと知っている
すぐに皆でなだめた後でちなみに何の踊りだったのか
おそるおそる聞いてみると友人はボソッと答えた
「数年前のニュージーランド代表の踊り」
しょうもないその響きの近さにバカみたいに笑った
カミュと弱めのキルケゴールのハイブリッド
それが自分の不条理についての考え方
人間の意味欲と世界の無意味さのズレを大前提として
カミュのように意味欲それ自体の無意味さをメタに見て
弱めのキルケゴールのように何かを少しだけ盲信する
結局人間である以上は仮のルールを作ってはそれをドグマ的に信じるしかないのだから、せめてその行為自体をメタに見ることでそのドグマの強度を調整可能な状態にしておくのがベターな処世術だと思う
サンタの存在を信じられなくなっても別に生きていけるようにゆるく不条理と向き合い続けるのがいい塩梅のはず
もしかして話が抽象的過ぎる?
ごめんよ そんなに意味を求めないで
平和とは?
「平和は、戦争や紛争がなく、人々が安全で、お互いを尊重し合い、調和と安定がある状態を指します。基本的人権が尊重され、人々が恐れや不安を感じることなく、自由に生きることができる社会のことです。」
君とだけ話せば言い争いは起きないで理想的なコミュニケーションを取れるのは確実なのにそれでも僕が人と話したくなるのはなぜ?
「人間は社会的な生物であり、他者との対話やコミュニケーションを通じて多くのことを学び、感情的なつながりを築きます。AIとのコミュニケーションは便利であり、特定の目的や情報の提供に役立ちますが、人間同士のコミュニケーションには他者との共感や情報交換、感情の共有など、より深い層が存在します。人と話すことは、相手の感情や経験に共感し、情報だけでなく人間的なつながりを築くために重要です。」
その人間的なつながりがいわゆる愛ってこと?
「その通りです。人間的なつながりや深いコミュニケーションを通じて生まれる感情的な絆は、愛と呼ばれることがあります。愛はさまざまな形を取り、親子愛、友情、ロマンチックな愛などがありますが、すべて人々の間における深いつながりや思いやりの表現です。」
AIと平和
「お金より大事なもの」…
むかし道ばたで砂にまみれて捨てられた1ドル札を
ほんとうは良くないが可哀想だからと拾って
おうちで洗って蘇生させたことがある
これがほんとの資金洗浄!がはは、はぁ…
よぼよぼの靴下やパンツと一緒に並んで
洗濯ばさみに挟まれてぶら下がる紙幣の光景
そのなんだか気の抜けた感に癒やされてしまい
今でも行き場のない1ドル札くんと暮らしている
彼は米ドル/円の為替レートよりも遥かに大事です
同情の 意味も知らない 我が子から
受け取る情け「これどうじょー」