昨日は映画【8番出口】を観てきた。原作との違いに驚きつつも「物語にしたらこんな感じなんだ」と感心して面白かった。翌日の朝には虹の架け橋が浮かびあがっていた。今日は良いことありそう♪
次の日の朝も空に虹がかかっていた。おや?と思いつつも身支度をする。「おはよう、今日は虹が出てたよ」コーヒーを飲む母がテレビを見ながら話してきた。ちょうど占いコーナーをしており私は8位だった。なんとも微妙な順位だ。
次の日の朝も空に虹がかかっていた。おや?と思いつつも身支度をする。「おはよう、今日は虹が出てたよ」コーヒーを飲む母がテレビを見ながら話してきた。ちょうど占いコーナーをしており私は8位だった。
朝になり目が覚めると、即座にカーテンを開けて空を見上げる。今日もまた虹が出ていた。「おはよう、今日は虹が出てたよ」コーヒーを飲む母がテレビを見ながら話してきた。ちょうど占いコーナーをしており私は8位だった。
いつになったら虹の向こう側に行けるのだろうか。
今日の私の順位は8位だった。
題『虹の架け橋🌈』
中学生の頃、文字数制限ギリギリの長文メールに対して返信することができませんでした。今となっては何故そのようなことをしてしまったのか上手く説明できません。ですが貴方を深く傷つけてしまったと申し訳なく思っています。ごめんなさい。できることなら直接会って話したいです。よろしければ都合の良い時間と場所を教えてください。例え地球の裏側でも会いにいきます。
題『既読がつかないメッセージ』
八百万の神や八重桜、膨大な数が溢れかえる8の季節が終わると零れ落ちた実りを収穫する9の季節がやってくる。厳しい冬の到来に備える黄金色の稲穂が首(こうべ)を垂れている。「拝む」の語源は稲穂を手に持ち、実りを感謝する姿が由来となっている。
今年は備蓄米や米の価格高騰が話題となったが新米の季節が再び訪れてくれた事を感謝したい。空も大地も黄金色に染まっていく。
題『秋色』
時間は有限だと分かっていながら無限にあるように浪費する。土砂降りだからと後回しにするのは簡単だけど明日生きているかは分からない。だから"ぜひ遊びに来てくれ"という約束は昨日済ませてきた。
「来てくれてありがとう。怖かったでしょ?」
そして今日、世界が終わる。
ほらね、終わりは突然やってくる。
題『もしも世界が終わるなら』
イタリアの小説に同じタイトルの著書がある。結んでは解け、解けては結ぶ。家族関係の崩壊と再生可能性、時には切断される靴紐の特性を結びつけている。日本語訳も発行されている。
しかし、翻訳家は著者の意向を損ねないように歴史的背景や生き様を調べるが、それは本当に正しいことなのだろうか?どのように翻訳しようが個人的解釈を無くすことはできない。そもそも翻訳行為自体が言語への冒涜であると言えるかもしれない。それならいっそ自由奔放、自己中心的な解釈があってもよい。
靴紐の結び方も一つではないのだから。
題『靴紐』