脳の想像力が豊かである内は何であれ声を聴くことができる。地球ですらゴミで溢れれば悲鳴をあげる。もはや何でもありだ。ここに書かれている文章も訴えているといえる。私の最後の声を聴きたいかい?なら今すぐ携帯の電源を切ってくれ。黒い画面から声はしないはずだ。
題『最後の声』
...なんだ、戻ってきたのか。もう営業時間外だ。シャッターを閉じるよ。最後の声は次の人に任せるとしよう。
「だいじょぶか?」
テレビを見ながらの反射的な言葉は、軽すぎて空気清浄機に吸い込まれるほどだ。顔を向けてもいなければ表情すらも変えてない。
電子機器の加工のパートと家事を負担する母。
「指が痛い」という言葉には鉄製のフライパン以上の重さがある。
代わりに炒め物をする。お皿を運ぶ。その場にいって無言で抱きしめて背中をさする。
言葉より行動に愛は宿る。
題『小さな愛』
世界はカラフルだ。雲の隙間から僅かに差し込む光。アルカリ性に染まった空。庭先では酸性の土壌が紫陽花を蒼く染めていた。
目の前に盲目のランナーがいた。早朝は彼らにとっても過ごしやすい時間帯だろう。迷いなき足取りには自信すら感じられる。空は誰にも等しくエネルギーを注いでくれる。
題『空はこんなにも』
夢は経験不足からくる妄想でしかない。一度体験してしまえば現実とのギャップに軌道修正を余儀なくされ、それはもはや夢ではなくなる。
大人になってからは"英語を話したい"という夢を持った。中学生の頃の英語教師があまりに酷いジャパニーズイングリッシュだったため、流暢に話せるようになりたかったのだ。だが10年学んでも理想には届かなかった。時間や努力が足りないとは思っていない。よく言われる「10,000時間の法則」はとうに過ぎていた。人生は一度きり。夢の損切りも時には必要だろう。
題『子供の頃の夢』
あなたの存在は土砂降りの暗闇の中、僅かな光と水滴で輝く白樺のようだ。排水溝は壊れたラジオのようにザーッザーッと存在を主張する。シデムシとハンミョウが這い出てきそうだ。私では彼らに対抗できない。土砂降りの雨の中の稲でしかない。
題『どこにも行かないで』