『桜散る』
僕の家に大きな桜の木がある。
満開になると母や父はご近所の奥様方や会社の同僚を呼んで花見パーティをするのが毎年恒例行事だった。
両親はともに人を招いてお茶会や飲み会をするのが好きなタイプで、僕も小学生の時から友達とクリスマスパーティや部活の慰労会などを我が家で開催していた。
ご近所のシンボルでもある桜の木と母が数年前から病気になり、今年の春は例年の半分程度しか花を咲かせなかったし、母も紅葉が盛りの頃に息を引き取った。
葬儀のあと、父は火葬せずに母を彼女が大好きだった桜の根本に丁寧に埋葬した。
今まで興味を示さなかった園芸の勉強をし、土壌の見直しや枝の剪定などを一生懸命に行った結果、二年後の春には平年の八割程の花を咲かせることに成功した。
「土の栄養が良かったんだ」と満開の桜を眺めて父は小さく微笑んだ。
母の死後、奥様方のお茶会はなくなったが相変わらず父は春になると近所の人や同僚、友達に我が家の桜を自慢しながら花見をした。
僕が高校二年生になると初めて彼女が出来た。
一年生の時から同じクラスの女の子で、霊感があるなんて陰口を言われていたけど、話してみると人見知りがある大人しい子だった。
何度か家に招くと、決まって彼女は庭の方を不安そうな瞳で見つめる。不審者がいるのかと思ったが、庭にも周囲にも特に不審なものは無かった。
その年のクリスマス、僕は生まれて初めて我が家で二人きりのクリスマスパーティをした。父は気を利かせて友達と飲みに出掛けたので、これはもしかするともしかして……な期待をどうしても抱いてしまう。
ご飯やケーキを食べて、二人でソファに座りながらテレビを見る。なんだかいつもより緊張する。なのに彼女は相変わらず庭の方を凝視している。
「ねぇ……前から言おうと思ったけど、あの桜の木、何かあるの? なんて言うか……不気味というか、気持ち悪い感じがするの」
母がこの家を建てた時に植えて、家族みんなで大切に育ててきた大好きな桜の悪口を言われるなんて思いもしなかった。
酷く腹が立ったし、酷く悲しくなったので、僕は彼女と別れることにした。
冬休み明け、彼女は学校に来なくなった。不登校になったのか転校したのかよく分からない。相変わらず霊感があるという陰口だけは今でも消えていなかった。
ただ、僕の家の桜は去年よりも綺麗な色の花を咲かせた。
高校卒業後、僕は自宅から通える会社に就職した。
先輩達は優しく僕を指導してくれた。上司はいつも厳しく大声で怒鳴り散らすように叱咤激励を飛ばしていた。
毎日毎日僕を「グス、のろま、給料泥棒」と呼ぶが、きっと悪役に徹して社会の厳しさを教えてくれているのだと思った。
三年経った頃、父が冬道のスリップ事故に巻き込まれ、打ち所が悪かったのか救急車の中で亡くなった。
僕は葬儀のあと、父を火葬せずに母と同様に桜の根本に丁寧に埋葬した。父は、母も桜も愛していたから、そうしてあげたいと思ったからだ。
四月になると、ようやく僕にも後輩が出来た。上司は僕にもしたように厳しく新人指導をした。
「なにぃ? 花見の席が埋まってた? 場所取りも出来ないのかよ、このグスッ!」
毎年、会社の花見の場所取りは新人の仕事だが、今年はコロナ明けでどこの公園も満杯らしい。
泣きながら謝る新人を上司は「仕事も出来ないクズは死ね」とパイプファイルで殴りながら注意をする。
あまりにも可哀相なので、僕の家にも桜の木があるので今年は我が家で花見をしませんかと提案した。
その提案はすんなり受け入れられ、注文したケータリングや酒を持って、会社の人に我が家の昨年よりも多く花を咲かせた桜を自慢した。
宴もたけなわな頃、ぐでんぐでんに酔っ払った上司が桜の木に立ちションしているところを目撃してしまった。
両親が愛し、家族みんなで大切に育ててきた桜に何てことをしているんだと初めて軽蔑感を覚えた。でも皆の楽しい時間に水を差したくなかったから、上司に父が残した強い酒をすすめた。
翌日、二日酔いになったのか上司は出社しなかった。体調が悪いのか何日も何ヶ月も休み続け、半年経過した頃には新人にパワハラで訴えられて退職したのではないかと噂が流れた。当の新人くんは否定していたけれど。
翌年の春も我が家で会社の花見をした。あんなクソ上司の存在なんて綺麗に忘れさられるくらい、今年の桜は美しく咲いた。
それからの僕は、大学を卒業した友人に合コンに誘われたり、先輩から女の子を紹介して貰ったりして、三十歳で結婚した。
二年後めでたく娘を授かった。
子供というのは、とても愛らしくて不思議な生き物だ。何もない空中をじっと見つめたり、誰もいないのに庭に知らない人がたくさんいると泣いたりした。
小さな娘はその後すくすく育ち、あっという間に小学生になり、中学生になり、高校生になると彼氏を連れてくるようになった。
ただ娘の成長と反比例するように桜は徐々に花を咲かせる力を失っていくようになった。
娘が大学生になった夏のある日曜日に彼氏とデートをしている姿をたまたま見つけた。感情の起伏がやや激しい彼氏だとは聞いているが、彼は娘の歩調に合わせずズカズカと歩いて後からついてくる娘に向かって「グズ、のろま」と頭を叩いた。その姿はいつかの上司を思い出させた。
いてもたってもいられず二人に声をかけ、男同士で話をしようと彼を引き離して娘と別れるように説得した。
翌週、スッキリした顔をした娘が彼氏と音信不通になって別れることが出来たと報告してきた。
翌年の春に今度は優しい好青年を連れてきた。モラハラ彼氏のことなど娘の記憶から抹消したことを喜ぶかのように桜は花をほころばせた。
大学卒業後も娘と優しい好青年との交際は順調に続き、数年後に結婚し我が家を出ていった。
なんだか淋しくなったねと妻と相談して、犬を飼うことにした。友人から若い一匹譲り受け、娘の名前と同じ『サクラ』と名付けた。
サクラはあまり吠えはしないが、少々やんちゃで庭のあちこちに穴を掘るのが玉に瑕な可愛い犬だった。
ある日のこと、いつもように庭に穴を掘っていたサクラがある物を咥えて僕のところに寄ってきた。
それは骨だった。
「おやおや、いつのを掘り返してきたんだい? 悪い子だなぁ」
翌朝、鎖で繋いでいなかったせいかサクラは逃げ出してしまったようだった。近所をくまなく探したが、とうとう見つけることは出来なかった。
数カ月後、妻が庭が臭いと言ってきた。
「ああ、桜の栄養になるように生ごみを埋めたんだ。でも、歳のせいか深く穴が掘れなくなってしまったよ」
じゃあ、私が深く掘っておくわと妻はシャベルを持って桜の根本を掘り返し始めた。
二時間後、妻は泣き叫びながら土とうじにまみれた首輪を手にして僕のところに駆けつけてきた。首輪には『サクラ』と書いてあった。
「……だから掘り返さなくていいって言ったじゃないか。あまり余計なことはしないで欲しいなぁ。いいかい? サクラは我が家の桜の一部になったんだよ。サクラのお陰で来年もあの桜は綺麗な花を咲かせるんだよ」
「で、でも……でも、人の骨も、あっ、あったわ……」
「それは両親の骨だよ。母も父もあの桜を愛していたから」
ふるふると妻は首を怯えるように横に振る。
「嘘……うそよ。だっ、だって……頭の、部分……五つ、出てきた、もの……」
ああ、君は全て見つけてしまったんだね。僕は酷く残念な気持ちで静かに微笑むしか出来なかった。
気がつくと、妻は泣きつかれたのか眠ってしまった。よっぽど深い眠りについているのかピクリとも動かない。子供の頃から寝相が悪いと自負していたのに。
僕は一晩中、桜の根本に穴を掘り続けた。もう二度と見つからないように、もう二度と騒ぎにならないように深く深く――。
季節は春になった。
我が家の桜は最後の力を振り絞るかのように、最期を彩るかのように花を咲かせた。
満開の桜をポツンと一人で見上げる。
両親が愛し、ご近所の方々や会社の人達にも愛され、妻や娘に愛され家族みんなで大切に育ててきた桜を一人孤独に見ることがこんなに淋しいとは思いもしなかった。
この桜はもう来年は花を咲かせないだろう……そんな予感がした。
この桜が無い人生など考えもつかない。
ザァと強く風が吹くと、花吹雪が舞い上がる。その中にきぃきぃと縄を軋ませながら僕の死体が揺れた。
『言葉にできない』
君を想うこの気持ちを友愛と呼ぶにはもう相応しい形を超えてて、恋と呼ぶには少し軽々しく、愛と呼ぶには仰々しい……そんな気持ちを何と呼ぶのだろうか?
君への気持ちを「好き」と表すには綿あめみたいに物足りなく、「愛してる」と表すには背脂ラーメンのように重い……そんな気持ちを何と表すのだろうか?
言葉にできない気持ちが、言葉にできないおもさで私の中に生まれて渦巻いて、私を形成していく。
言葉にできない気持ちを言葉にできずに奥底に隠して、幾星霜経てばいつか消えてくれればいいのに……。
もう届けることができない君への気持ちが、まだ私のなかで息づいて言葉になるのを待っている。
『大切なもの』
この世で一番大切なもの、貴方にとってそれは何ですか?
家族? 恋人?
仕事? 恋愛?
お金? 名誉?
それとも私ですか?
私の大切なものは何だろうか?
家族? 恋人?
仕事? 恋愛?
お金? 名誉?
でも星の王子さまは言ったわ。
『砂漠が美しいのは、どこかに井戸が隠されているから』
きっと大切なものは目に見えないところにあるのよ。
この世で一番大切なもの、貴方にとってそれは何ですか?
出来れば私だと答えて欲しい。
私の一番大切なもの、まっすぐに正直に伝えるわ。
すぐ隣にいるのにどこにあるのか分からなくて、だけど確かに存在している貴方の愛だと。
『ハッピーエンド』
お姫様は大好きな王子様と結婚して幸せに暮らしました。
物語の結末はいつも決まってハッピーエンド。
だから、両親から蝶よ花よと大切に育てられた私も大好きな人と結婚して幸せに暮らせると、ずっと思っていた。
結婚して最初の一年は絵に描いたような幸せな生活だった。
ニ年目に入ってからは両家から「早く子供を作れ」と囃し立てられて、妊活を始めた。
頑張っているのに成果が出てこない四年目、気づけは友達はみんなママになっていた。久しぶりに集まってもお産はどこの病院だったとか、離乳食を食べてくれないとか、夜泣きがしんどくて眠れないとか……共感出来そうで出来ない話題ばかりで肩身が狭い思いが募った。
結婚して五年目、旦那は結婚記念日を忘れて飲み会に参加した。義実家に帰省すれば、子供も産めない出来損ないと陰口を言われたり、面と向かって嫌味を言われることが増えた。
そのことを旦那に相談しても「早く孫の顔がみたくて、思わず口に出しただけだろう」と適当なことを言い、じゃあ妊活にもっと協力してよと提案すれば「仕事で疲れているから」と先に寝てしまう。
夫婦で共働きして家事をしているんだから、私だって疲れているんだよ? ねぇ……フルタイムで働いて、買い物袋を携えて満員電車に揺られて、帰宅後に家事を全部やってそれでもなおセックス出来るくらい女は体力が有り余っているとでも思っているの?
高い不妊治療費を払って運良く子宝に恵まれた八年目、可愛い女の子を産んだ。義母が喜んでくれたのは一瞬で、すぐに「跡継ぎの男児を産めない役立たず」と文句を言われる。三代前からサラリーマンの家系のはずなのに、跡継ぎとかって時代遅れも甚だしいと思った。
娘が三歳になった頃、旦那の浮気が発覚した。相手は私の親友だった。
本当は離婚したかったけど、義両親に泣き付かれて渋々許すことにした。あまりにも悔しかったからキッパリと二人目を作る気は無いと宣言した。
以来、義母は掌を返したように娘を可愛がるようになった。旦那も本気で反省したのか以前より家事育児に協力してくれるようになった。
だけど何年経っても忘れられない。
義母からネチネチと悪口を言われたこと、親友と旦那が獣みたいなセックスをしてたのを見てしまったこと。
祖母と父親の役割が無ければ今すぐにでも殺してやりたい恨みつらみを奥底に隠して、娘の成長だけを楽しみにして生きている……。
――なんてことを幼い頃から母は壊れたレコードのように繰り返し私に話す。
彼氏が結婚の挨拶に来てからは、母は酷く不安に感じているようだ。自分の二の舞いにならないかを。
父方の祖母に結婚することを伝えると涙を流して喜んでくれ、私の花嫁姿を見たら死んでも悔いはないとまで言ってくれた。
大丈夫だよ。お母さん、おばあちゃん。
私だって幸せになれることをずっと考えているんだから。
結婚式当日の朝、しっかり朝食を食べて薬を飲む。
お互いのスケジュール的に前撮り撮影する余裕が無く、朝から式の準備と撮影に追われていた。
あっという間にチャペルへの入場。
父の手を取って、真っ白で素敵なタキシードに身を包んだ彼のもとへ一歩一歩噛み締めて向かう。
神様の前で永遠の愛を誓い合ってキスをし親戚や友人達からのフラワーシャワーを浴びる。
なんて幸せな光景……。両親との思い出や友達と笑いあった思い出、彼と過ごした日々が走馬灯のように脳内をよぎった。
退場前に振り返って一礼した後、私はキスをせがんだ。
彼は驚いて少し照れながらもう一度キスをしてくれた。
その直後、私はゴフッと血を吐いた。彼の真っ白な胸元が真っ赤に染まる。
なんていいタイミング。朝飲んだ毒がようやく効いたんだわ。
ねぇ、彼くん。私知ってるのよ、貴方が私の親友と浮気してること。
浮気の証拠写真と遺書を、私と貴方と親友の実家と職場に明日着くように発送しておいたからね? この後の修羅場展開が見れなくて残念だけど、お母さんから恨みつらみはきっちり晴らしなさいって反面教師的に教わったの。
ああ……おばあちゃん、お母さん、そんな青ざめた表情しないで。
みんなから祝福されて幸せ絶頂のなかで死ねるのよ。
とっても素敵なハッピーエンドでしょ?
『もっと知りたい』
君のことをもっと知りたいと思うのはワガママかな?
きっかけは何てことない些細なこと。
君が図書館の窓辺で静かに本を読んでいる姿が、陽の光を浴びてなんだか儚げだったから目を奪われてしまった。
それから急に君がことが気になって、いつの間にか君の姿を目で追うようになり、君のことが頭から離れなくなった。
「好きなの? あいつのこと」
「へっ?」
お昼休みのときに友達から指摘された。どうして、そんなことを聞くのかと尋ねたら
「えー、だって瞳が完全に恋する乙女モードだもん!」
……知らなかった。
そうか、私は彼のことが好きなのか……。
自分が同級生に恋をしていると自覚すると、身体が熱くなった。
君を見ると胸がドキドキして、少し苦しいのになんだか幸せな気持ちになる。
もっと色んな君を見たい、知りたいと思うようになった。
真剣に授業を受ける横顔。
クラスの男子とはしゃぐ笑顔。
給食で苦手っぽい食材を食べた時のしかめ面。
図書館でいつもの窓辺で読む本を探す悩ましい表情。
もっと、もっと知りたい。もっと、もっと見たい。
好きな色とか、好きな作家さんとか、好きな食べ物とか、得意な授業や苦手な授業とか……。
好きな女の子のタイプとか。
もっと、もっと知りたい。
ああ、どうして恋する女の子の好奇心はこうも貪欲なんだろうか。
でもね、同じくらい私のことも知って欲しいんだよ。
私が君のことが、こんなにも好きだってこと……もっともっと知って欲しいんだよ。
ねぇ、君は私のことをどう思っている?
すっごく、すっごく知りたいよ……。