夜歩くのが好きで思い立って散歩に出ることがある。
散歩とは当てもなく歩くことであろうが私にとって目的地がないことはどうも落ち着きが悪く大抵は近所のコンビニまで行こうとか公園まで行こうとかゴールを設定してしまう。
街灯の薄明かりを進みながらよく考えるのは、なぜ自分は夜の散歩が好きなのかということだ。色々ととってつけたような理由は思い浮かぶのだが考えたあげくの結論はシンプルだ。どうも私は夜に散歩する自分がなんかお洒落で格好いいと思っているらしい。
こんな恥ずかしい結論もないのだが自分に正直であろうとするならこれが一番的を射ている気がする。私は夜の散歩を好むようなお洒落な自分が好きでなぜそう思うかと言えば私の敬愛する小説家や音楽家などの表現者たちが夜の散歩を慕い、またそれが似合う人たちだからだ。要するにかぶれているのだ私は。
冬の街はひどく冷たい。点滅する光と闇の狭間を私は愛慕する人たちに歩かされている。
施設育ちの友人は「愛ってなにかわかんない」とよくこぼした。
愛は実体のあるものではない。言葉によって存在する抽象概念だ。
普段私たちは愛という言葉を気軽に用いるが、愛とはなにかと改めて問われればそれに答えるのは簡単ではない。それにも関わらずこの言葉が気兼ねく頻繁に使われるのは私たちが愛というものを知っていると感じているからだ。
多くの場合、人は幼少期に親と触れ合い、かわいがられたり褒められたりといった体験をする。その具体的体験を通して得た感覚や感情は、愛という名称を知らない人からすると、なんとなく温かい感じとか安心する感じなどといった漠然としたものでしかない。しかし愛という名称を知ったあと、その現象が愛という感じなのだと理解する。つまり具体的な触れ合いのなかで体験した名状しがたい感覚や感情、その出来事全体が愛という言葉によって概念化されまとめられる。このプロセスを経て愛を受けた人は自分が愛されたことを知り、愛というものを知る。
こう考えると、愛されたと感じる体験が非常に少ない、あるいは全くなかった人は愛とはなにかということを理解することが極めて困難であるといえる。知識として愛という言葉とその意味を知っていても自分の体験のなかにそれがなければ決してわかるという感覚にはならない。
「誰かに愛されたいよ」
「私のことを一番に愛してくれる人が隣にいてほしい」
愛がなんなのかわからないと言いながらも彼女は愛されることを渇望していた。会ったこともない人を探すことが不可能に近い難題であるのと同じように、なにかもわからないものを求めて彷徨うのは常に苦痛を伴う。
愛されるとはどういうことだろう。私たちは何をしてもらったときに愛されていると感じ、後に振り返って愛されていたと感じられるのだろうか。
私が思うにそれは自分がありのままに他者に受け入れられ、認められ、寄り添ってもらえたと実感できたときだ。
ただ衣食住の世話をされることが愛されることではない。
自分の気持ちを相手に素直に伝えることができ、それを認められ、受け入れられ、満たしてもらったとき初めて人は素直に愛されたと感じることができる。
愛がわからず愛を求め続ける人たちはこういった体験がとても乏しい。
そんな人たちを見ると私は彼、彼女たちが生き抜いてきた過酷な境遇を思わずにはいられない。
自らの意思を伝えることも出来ず自分を殺し我慢し続けてきたのではないか。
生きることに意味を見いだせずそれでも懸命にもがき続けているのではないだろうか。
「でもあなたに会えたのは嬉しく思ってる」
あるときふいに彼女が私に言った。
それを聞いて私はただ素直に嬉しかった。
もしかしたらほんの少しでも彼女に愛を与えられたことがあったのかもしれない。
そんな楽観的な希望に近いことをちょっとだけ考えた。
私は自分を犠牲にしたり能力以上のことをしようとは思わない。
でももし可能であるなら、出来る限り、私の周りの人たちだけにでも、愛を与えられる人でありたい。