世界平和を謳ったポスターにはよく地球を囲んで沢山の人が並んでいる絵が描かれている
"手を取り合って"
そんなポスターのように社会が平和になれば
どれほどの人が救われるのだろうか
そして、どれほどの人が嫌がるのだろうか
社会は自然や人間によってこれまで沢山の方向に変わってきた。
平和を重視する時代、戦争を良しとする時代
いつの時代にもそれに翻弄される人々がいた。
社会が平和になるためには何が必要なのか
それは私達の永遠の課題だと思う
"優越感"
自分が他者より優れているという感覚
"劣等感"
自分が他者より劣っているという感覚
この二つの感情は似ている。
どちらも他者に抱く感情で
どちらも競争心から出来る感情だから。
人間は大抵の時間、この二つの感情を行き来しているのではないだろうか
私を含め他者と自分を比べ、それに対して何かを感じる
それは決して悪い事ではない。むしろ良い事だ
他者を気にかけて自分を前進させようと奮闘している証拠なのだから。
報われない努力は正直多いけれど
今を生きている人達が人生を終える時に良い人生だったと思えたとしたら
それはある意味報われたというのかもしれない。
"1件のLINE"
閑散とした携帯に突然入ったそんな通知
貴方からだと気が付いた私は早く見たい気持ちを抑えて空を見る。
大好きな太陽が夜の月に追い出されて
それもまたいいものだな、なんて思ってしまう。
熱い体に暖かい風が吹いて体を湿らせるけれど
それが汗だと気付くまでに貴方はもう一度メッセージを送ってくる
"後ろ見て"
後ろを振り返るとそこには満面の笑みのあなたがいて
恥ずかしそうにプレゼントを差し出して、お誕生日おめでとうと言ってくる。
そうだ、私は何十年か前の今日に生まれたんだ。
何も言わずに繋がれた手に感謝を込めて
そっと手を握った。
月明かりに照らされた貴方は、間違いなく人生で一番素敵な誕生日プレゼントだった。
日常と当たり前は似て非なるものだと思う
完全に私のイメージだけど、
日常はどちらかというと優しい雰囲気で
当たり前は強制されるものという感じ。
して当たり前、できて当たり前。
私達は知らず知らずのうちに先人の道を辿っている部分が少なからずある。
つまり私達は誰かの日常が積み重なって出来た当たり前を強制されているのかもしれない。
"私の当たり前"
それは単なる自分の日常だけではないのだろう。
"星空"
今を生きる私達には、それをゆっくり見る余裕なんて無い人が多い。実際私もその一人だ。
明日に落胆し、将来に迷い悩む今に
"星空"とやらは何故あんなにも心を浄化してくれるのだろう
またいつかゆっくり星を眺める日が来るだろうか
空にある星の数を大切な人と一緒に数えたり流れ星に願い事を唱える、あの何ともない幸せな日が。
雨で星が見えなかったとしても、きっとそこに星はあるのだろうけど
それでもいつか煩わし世の中の幸せな部分に気づいて
星が綺麗に見える日が来る事を願っている。