透明な涙
彼の涙は、まさにそう呼べる、そう呼ぶべきであるものだった。涙は、普通透明だ。だから、この感想はおかしなものなのだけれど、「透明な涙」というのは、これ以上ないほどそれによくあっていると感じた。
—「好きです。」
こんな言葉を生きているうちに聞くとは、まるで思わなかった。だって、特別恵まれた見た目も、性格も、好かれるような何かも、自分は何一つ持ち合わせていないと思っていたから。
それでも、顔を真っ赤にして、でもしっかりと目に強い意志を湛えてこちらを仰ぎ見る彼からは、素っ気なく突き放すことも出来ないような真剣さを読み取れた。
でも、どうして?
さっき言ったように、とりたてて何かある訳でもない自分に、告白してくるような人がいるとは。今まで全く縁のなかった出来事に、困惑してしまう。どう返事をしたら良いものか。正直なところ、彼に恋愛的に好意を抱いていたかと問われれば、答えはノーだ。でも、きっと勇気を出してきてくれたであろう彼に優しい言葉をかけたいのだが、上手な断り方が見つからない。
どれくらいだったか、思いの外長い間思案してしまった。慌てて彼の方を見ると、まだそこにいた。何も言わず待たせてしまったのに関わらず静かに待っているとは健気な人だと思っていると、ふと彼の目元が光ったように見えた。
彼は、泣いていた。
もしかしたら、悩んでいるところが、自分が告白して不快に感じているように見えたのかもしれない。それでもじっと耐えてそこに佇んでいる彼。
人から好意を向けられて、嬉しくない人はいるだろうか。ソースは、自分しかないが。
この短い時間で彼に少し情が湧いてしまった。これが、彼からしたらはた迷惑でそんなことをするくらいなら、期待をさせるくらいならいっそしっかりと断ったほうがいいのもわかっている。
でも、もう少しだけ、強く、きれいな彼を見ていたいと思った。思ってしまった。
ありきたりかもしれないが、ハンカチを取り出した。
でもその先は、ちゃんと、自分の手でさせてもらった。
愛を注いで
器。
コップのような、はたまたお椀のような。
人によって大きさも形も異なる、千差万別のそれ。
それに注がれる形の無いものが、心を満たしていく。
でも、私のものは、きっと、とても大きいか、ヒビが入っている。
だから、永遠にそこは満ちることがない。
母親も、父親も、祖父も祖母も友達も先生も彼も彼女も小鳥もパンダもなにもかも。
誰も私を満たせない。
それに気づいてしまってから、ますます私の心は深く暗く底が見えないものを造り出した。
それが満たされないのは、私が大きくなっても、誰かと抱き合ってみても変わらなかった。
むしろそれをしていく度に、ただでさえたまらない何かが減っていくような気がした。
街で幸せそうな家族やカップルを見ると自分でも呆れるほどの羨ましさと忌々しさを抱くようになったのは、その頃から。
そんなふうな感情を抱いてしまうくらいなら、無理してでも自分も「大切な人」とやらをつくってしまおうかと血迷ったのがそれから二年半ほど経った頃。
この思いが行き過ぎて、いつか自分が何かしでかすんじゃないか、人様に迷惑をかけるなら、それならいっそ、、、などと私らしくない考えを持ち始めたのが、それからさらに一年だった頃。
私らしくなく思い悩み、本当に当てはまる時があるのだと、いつかにならった「焦心苦慮」やら「艱難辛苦」やらを思い出したのがそれから半年たった頃。
最後にあなたと、なんていつか見たカップルの片方みたいな顔をしながら考えたのがそこから一ヶ月経った頃。
そんな無価値なことを考えたのは、椅子の上。
もっと早く出会えていたらなどとまた無価値なことを考えたのも、椅子の上。
妙に近い照明と天井に、ほこりやしみを見つけながら、少しだけ立ち止まったのが、そこから数十秒間。
自分のうつわが、今まで知らなかったあたたかなもので満たされていると。
それはあの人のおかげだと。
気づいたのは、一歩を踏み出したとき。
ずっと欲しかったのものがなんなのか。
わかっていたのは、きっと、ずっとずっと昔。
意味がないこと
私の人生。
あなたとわたし
勉強ができて、いつも高得点で、順位も高い私。
そんな私を羨望の眼差しで見つめるあなた。
あなたはいつも勉強が苦手で、私に聞きにくる。
私しか頼れる人がいないんでしょう?
テストもいつも点が低い方で、順位も誇れるものじゃないでしょう?
3桁の台にあがったら危機感を感じるだなんて、私は考えられない。2桁でも、不安になるわ。
あなたにとってわたしは、頼れる優しい頭のいい人でしょう。
そう、おもっていたのに。
どうしてあの子のところばかり行くの?
あの子よりわたしの方が点数も高くて順位も良くて真面目で……
ねえ、どうして?
2人でもわからなかったとき、最後の頼み、みたいな。
自分が、勉強で使えるとしか思われてないみたいな。
どちらか1人がいない時の、暇つぶしでしかないみたいな。
それとも、優先順位が違うだけの今までどおりなの?
私のどこが悪かったの?
教室の中ですら、自分の席以外居場所がないように思えて、立つのも申し訳なく感じて、自分から話しかけにいけないこと?
周りの目が気になって、誰かを1人で待つのが苦手なこと?
1人で大丈夫ですみたいな顔して、本当は誰よりも寂しがってるとこ?
寂しいくせに強がって、誰にもなにも本心を見せないようにするとこ?
不意に出る言葉が、みんなの心に不協和音をもたらすこと?
全部の意見を悪く言いたくなくてつまらない曖昧な応えしか出てこないこと?
あなたとわたし
勉強ができて、テストは高得点で、順位も高くて、読書感想文も選ばれて、美術の作品も選ばれて、先生にも褒められる私。
テストは点が低い方で、順位も誇れるものではなくて、授業中も頭のいい人が近くにいないと進められない。
早く終わる何の成果もないような遊びのような部活で1人で時間が過ぎるのを待つ私。
どんどん力をつけていって後輩にも先輩にも好かれる活動的な運動部のエースのあなた。
休み時間、1人本を読む私。
休み時間、私とはかけ離れた世界の人たちと話すあなた。
もともとは、同じ境遇だったはずなのに。
あの世界の人たちは怖いねと、自分は近づけないよと言い合ったのに。
いつの間にかあなたも、その世界にいるの。
勉強ができない。それは良くないこと。でもね、それ以上に大切なことがあると思うの。
どれだけ勉強ができても、頭が良くても、それはいいことだけれど、でもね。
あなたの方が楽しそうなの。
暗がりの中で
普段は怖いと感じる闇も、この日ばかりは、この時ばかりはそうは思わなかった。それは、闇よりも怖い何かがあったからかもしれないし、私に闇に恐怖を覚える暇がなかったからかもしれない。
闇。それは、心が微妙な暗さを持つとき、恐怖の対象になる。
闇の暗さと、心の暗さ。
似ているようで似ていないそれが同じ場所にある。
私はそれに、恐怖を感じる。
反対に、もう、自分がどうなってもいい。全てがどうでもいい。そんなふうに思っているとき、それは安堵できる場所になる。
自分の心の底のどす黒いものが、闇の色に近づけば近づくほど、完全に溶け込むほど、そこは、どれほどあたたかい場所よりもどれほど優しさに満ちた場所よりも素晴らしい場所になる。
そんな私の救いの場所で、今日も私は何も見えない目を閉じることなく、部屋の壁など感じさせぬひたすらに続く闇を見つめる。
耐え難いほどの明るさが迫るその時に備えて。