もしも世界が終わるなら
焼き芋と大学芋をたらふく食いたい。
靴紐を結ぶときは絶対に左右対称でなければならない。右側が大きく、左側が小さく、こんなのはだめだ。予定に遅れそうでも、人を待たせていてもこれだけはしないといけないのだ。他にも、テレビの音量は偶数でなければならない。机の角を1日1回は触らなければならない。咳をするときは絶対に4回はしなければならない。上を向くときは目の動かし方に気をつけなければならない。列に並ぶときは背筋をまっすぐ伸ばさなければならない。人と話すときは無駄なことは言ってはならない。笑顔でいなければならない。他にも何百、いや何千と守って生きてきた。
それなのに、私の全てであるこの世界を、誰も見ていなかったのだ。自分は意味などなかったのだ。初めから死んでいたのだ。殺されているのにずっと気づいてなかったのだ。ああ、恨めしい。
『私はそれが嫌だと思ってしまう。私って薄情だよね?』
このような表現には、
「口に出すことで、自分がこの考えを持っていることは一般的には優しくないものと否定されると理解することができている、つまり自分は感覚が狂っているわけではない。理性的な部分もあり、優しさもあるのだ」
ということを周りに知らしめているのである。また、疑問形で自分の思いを伝えることで、否定されるのを回避している。とても気持ちの悪いものである。
いっそのこと
『私は薄情な生き物だから、それが嫌だと思う。』
と断言してしまい、誰かに「そんなことはない」と言われても『いや、そうである。』と曲げないほうが人は善人に近しい生き物だと捉える。
この文章を読んでわかったと思うが、私は乱反射のようなフィルターで人間をみてしまっている。
私は薄情な生き物だよね?
夏の忘れものを探しに、どこかへ行った。
目玉を一つと、足の親指の爪、そして綺麗だったから心臓もついでに。持って帰った。
なぜ泣くの?と聞かれたから
この人は私の敵だと認識した。