怪々夢

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7/1/2024, 2:09:46 AM

コーポ工房

 第一話 コーポエリーゼ

 コーポ工房。略してコポコボ。言いずらい。私の経営するアパートであった。経営と言ってもマンション経営で財を成した父親に、20歳の誕生日プレゼントで貰ったものだ。だからアパート経営のノウハウなど無い。諸々の事は管理会社に任せてしまっているから契約の時ですら住人とは顔を合わせない。ただ、入居者が増えると小遣いが増えて、入居者が減ると小遣いが減る。最近は小遣いは減る一方だ。
 愛知県名古屋市矢場町、コポコボはこの街でリーズナルな価格で安住を提供している。学生やおとこやもめの中年などの住人が多い。管理会社からリフォームの話を持ちかけられたが保留している。リフォームの参考にするため、色々な物件を物色していた所、矢場から2駅先の大須にコーポエリーゼと言うアパートがあって、何でもすこぶる評判が良いらしい。私は何としてもその評判の秘訣を知りたいと思った。
 大須駅で降りて不動産屋に入る。コーポエリーゼは大須駅から徒歩10分、1DKで月45,000円の物件だ。私は同じ条件を不動産屋に提示することにした。不動産屋が出してきた3つの物件の内、2番目の物件がコーポエリーゼだった。ちょうど空きが出たらしい。私は思惑が上手くいってほくそ笑んだ。不動産の説明を適当に聞き流し、早速内見に行くことになった。
 1番目の物件は築25年だがリフォームされて新築の様だった。
『やっぱりコポコボもリフォームした方がいいのかなぁ。』
私はリフォーム代は幾らぐらいかかったのか?とか、リフォームした後の入居者の評判は?とかを聞いて不動産屋を困らせた。ベランダの日当たりとか、寝室の収納などをチェックした後、浴室に向かった。今までがらんどうの部屋ばかり見てきたが、脱衣所には洗濯機が置いてあった。しかも最新式だ。
「この洗濯機は何ですか?」
「ああ、これは備え付けの洗濯機です。洗濯機って寸法を考えたり、性能考えたり、買う時悩みますよね?こちらの物件は洗濯機が付いておりますので、そんな悩みは必要ないんですよぉ」
不動産屋は得意げに語尾なんか伸ばして説明してきたが、私はジャブを2,3発貰った様な気分だった。備え付けの洗濯機が当たり前にある、もうそんな時代なのか。

 お目当てのコーポエリーゼに着いた。コーポエリーゼは、巨大だった。田舎の小さな小学校くらいの大きさがある。そして外装は田舎の小さな小学校の様に地味だ。少し緊張しながら案内されたのは105号室だった。室内は地味と言うよりは古めかしいと言った感じだった。和室の襖にあしらわれた花柄は色褪せ、押入れの柱は木目がやけにはっきりしていて、じっと見つめていると人の顔に見えてきて気持ち悪かった。うーむ、何の変哲もない。これではコーポ工房の方が住み良いくらいだ。そうなると人気の秘密がますます分からない。住んでみないと分からないと言うことなのか?
「ここいいですね。ここにしようかなぁ」
本心では契約することを決めているのだが、怪しまれない様にさり気なく言ったつもりだ。
「お客様、ここ気に入りましたか?小説とか書かれている感じですか?」
「えっ、書いてないですけど」
「じゃあ、イラストとか、絵画とかやられているとか?」
「ないですけど」
「こまったなぁ、楽器とか嗜まれているとか、そういうのないですかねぇ?」
「ないですけど、何か問題があるんですか?」
貸し手が貸すのを渋るってどう言うこと?俺の声は尖っていた。
「いやぁ、コーポエリーゼなんですがね、アーティスティックアパートと言いますか、トキワ荘見たいなもんですね。住人は必ず芸術活動しているんですよ」
「えっ?それが条件ですか?」
「条件と言いますか、暗黙の了解と言いますか」
「俳優です。役者をやっています」
「ほう、それは素晴らしい」
嘘を付いてしまいました。学生の頃に演劇サークルに居ただけです。それも端役ばかりの。
「ぜひ何か見せて頂けませんか?」
その顔から信用していないのが手に取る様に分かる。不動産屋よ、正解だ。
「じゃあ、ちょっと、早口言葉を」
舌で唇を湿らしてからメジャーな早口言葉を繰り出した。
「生ムニ、生モネ、生ナナポ」いかん、全部噛んでしまった。
「うーん、もう一つ何か、朗読かなんかできませんか?」
朗読か、暗唱できる詩なんかあったかな?私は咄嗟に思いついた詩を朗読した。
「男には自分の世界がある。例えるなら、空をかける、一筋の流れ星」
「おお、ルパン3世のテーマですか?いいですね」
不動産屋は納得してくれた様だ。

 コーポエリーゼを後にし、一応3番目の物件も見たのち、不動産屋に戻った。
「それでは7月1日からコーポエリーゼの105号室にご入居と言うことでよろしいですかね?」
不動産屋との諸々の手続きを済ませ。俺は帰宅した。コーポエリーゼに住んで、その人気の秘訣を探る。まるでスパイや探偵ではないか。演劇サークル仕込みの演技力が試されるな。まるでホームズやボンドになった気分で悦に入っていた。
 
 7月1日。午前中に引越し業者に荷物を運んでもらうと、近くのファミレスで食事を済ませ、午後にエリーゼに向かった。
「人気のコーポエリーゼ、その秘密を暴き、欠点を浮き彫りにし、その評判を地に落としてやる。俺の毒牙にかかったものは生きては帰れぬのだ。ハッハッハ」
などと妄想していると後ろから声を掛けられた。
振り返ると銀髪のショートカットの女がいた。肩にはオレンジのマスコットを乗せている。イタイ格好だ。
「新しく越してきた方?」
「はい、怪々夢といいます。よろしくお願いします」
「何やってる人?」
「アパート経‥俳優です。」危うくアパート経営と言いそうになってた。
「アパート系俳優?」
「ああ、売れない役者のことをアパート系俳優と言って、売れてる役者のことをマンション系俳優って言うんですよ。役者業界の隠語ですね」
すぐにバレそうな嘘をついて、目が泳ぎそうになるのを必死に耐えた。
「へぇ、知らなかった、さすが役者さんだ。じゃあ、今度1人芝居用の脚本書いてくるから、演じてくれない?」
「1人芝居ですか?」
「できないの?」
「できます」
「さすが役者さんだ」
その一言を聞くと納得したのか女は足早に去っていった。

コーポエリーゼ、恐ろしい所だ。どうしよう、初日にしてすでに逃げ出したい。


 第二話 コーポ工房101号室

 久しぶりにコーポ工房に帰ってきていた。やっぱり落ち着く。私はオーナーをやりながらコポコボの101号室にも暮らしているのだが、住人はその事に気付いていない。アパート経営に関しては管理会社に一任しているからだ。今日は友人の富良野マンロウを部屋に呼んで、芝居の稽古を付けて貰うことにしたのだ。富良野は大学時代の演劇部の部長で、卒業後は小劇団を主催している。大学時代から社交的な富良野と人見りな私は仲が良く、進む道が別れた今でもその関係は途切れることはなかった。
「と言う訳でさ、一人芝居をやらなきゃいけないんだよ。参っちゃうよ」
「何でそんな事しなくちゃいけないんだ?」
富良野は冷静な物言いだった。
「何でって、いかれた住人に言われたからだよ」
「だから、いかれた住人に言われたくらいで、何で一人芝居をやるんだよ?」
「入居テストかもしれないじゃないか」
富良野は首から頭をだらんと下げ、大きなため息をついた。そしていかにも呆れた表情を作って、いつもの芯を食った指摘をしてくる。
「そもそもコーポエリーゼに住む必要があるのか?お前の仕事はコポコボを住み心地のいいアパートにすることだろ?
だったらまずはコポコボを見つめ直すべきなんじゃないか?」
 ぐうの音も出ないとはこのことだ。頭をトンカチでぶん殴られた気分だった。トンカチは頭を殴った後、そのままクルクルと落下して足の小指にもぶつかった。
「確かにお前の言う通りだな。コーポエリーゼからは足を洗うよ」
「それはダメだ」
富良野はきっぱりと言った。
「え?どう言うこと?」
富良野の真意を理解出来ず聞き返した。富良野は熱く、だけど静かに話始めた。
「途中で物事を投げ出してしまうのがお前の悪いクセだ。もう直ぐ30歳だろ?そろそろ人生の歯車の回し方を変えてみないか?とりあえずやってみろ。俺はお前の1人芝居を見てみたいんだ」
「なんだよ、俺の下手くそな演技を見て笑いたいのか?」
私は苦手笑いを浮かべて、視線を富良野から窓の外に向けた。私は大学4年時に自分の下手さに嫌気が差して演劇サークルを抜けた過去がある。以来、演劇を続けている富良野や、昔のサークル仲間に会うと劣等感を感じてしまう。私はかつて演劇サークルに所属していたことを秘密にしている。私に演技を語る資格などないからだ。ドラマなどで演技力を批判されている俳優さんを見ると悲しくなる。人前で堂々と演技をしている。それだけで素晴らしいではないか。それだけで俳優ではないか。
「なぁ、怪々夢」富良野の声のトーンは優しい物に変化していた。「俺はお前の演技を下手だなんて思ったことはないよ。だけど芝居には共演者がいて、脚本があって、演出家がいる。お前は頑固過ぎるよ。それで協調性が無くて自滅して行ったんだ」
富良野はいつも痛いところを突く。あまりにも正しい事を言うので反発したこともあった。でも今は、富良野の言葉は俺の心の奥深くにまで染み込んでくる。富良野はこんな提案をしてきた。
「怪々夢が良かったら、俺の知り合いの演出家がやっているワークショップに参加してみないか?初心者向けのワークショップだけど、その方が今のお前には感じる物があるんじゃないか?」
私は何も言わずに頷いた。
 この日の稽古は夜通し続いた。大学生に戻った気がした。

 翌日、富良野を見送った後、コポコボに何か不具合がないか、一つ一つチェックしてみた。すると駐輪場の波板がひび割れて割れそうな箇所がある事を発見した。
『先日降った雹のせいだな。あの雹凄かったもんなぁ。』
私はホームセンターで波板を買ってくると、交換を始めた。私は趣味でDIYをやっているのでこう言うのは得意だ。私が住んでいるコーポ工房101号室は1LDKの特別仕様だ。私はそのリビング部分をDIYで自分なりにカスタマイズしている。収納を増やしたり、壁に花瓶を置くための棚を作ったりしている。採算繰り返すが私はオーナーなので現状復帰など気にする必要ないのだ。
 私が電動ドリルを使って波板を取り付けているとコポコボの住人の方が話しかけてきた。203号室の高橋さんだったかな?あまり化粧っ気のない、素朴な女の子だった。
「何をされているんですか?」
「波板が割れていたので交換しているんですよ」
「それは管理会社に任せた方がよろしいのでは?」
「ああ、そうですね。後で管理会社に伝えておきますよ」
高橋さんは学生の時に越してきて、就職しても住み続けてくれている。今日は平日だけど会社は休みかな?就職してからはスーツ姿しか見かけなかったから、久しぶりに私服を見た。ワンピースの裾をヒラヒラさせながら2階への階段を登って行く。
「ふぅー。こんなもんかな」
自分の仕事に満足した。住人は感謝してくれるだろうか?住人の満足度が知りたくなった。ツィッターみたいにコメントが欲しいな。そこで目安箱を設置する事にしてみた。ついでにリフォームして欲しい所は何かと言うアンケートも取る。使われていないポストを目安箱にし、アンケート用紙とペンも用意した。私は自身へのポイントを上げるためゴミ捨て場の清掃も行うことにした。金曜日は生ゴミの日じゃないのに出してる住人がいる。私はゴミ捨て場の扉に注意書きを貼ると、デッキブラシ片手に掃除を始めた。ツンとくる汚臭を鼻腔に入れてしまい、胃液が刺激され、えずきが逆流してくる。そしてまたしても住人に話しかけられた。田中さんだったかな?田中さんは40代男性で東京に奥さんと子供を残して大須に越して来たのだそうだ。
「お掃除されているんですか?」
「そうですね、ちょっと汚れていたので」
「でも住人の方ですよね?」
そうなのだ。私は住人名簿を見ているから田中さんのことを知っているが、こうして話すのは初めてなのだ。
「ええ、直ぐそこの部屋に住んでる者です。管理会社の人間ではないのですが、掃除が好きなので」
「お好きなんですね?」
「はい」
「コーポ工房が」
「え?」
田中さんはドラマのセリフみたいなことを言って立ち去って行った。
 しばらくデッキブラシをゴシゴシやっていたが染み付いた匂いは取れない。が、まぁ、十分綺麗になったのではないか?明日は土曜日、富良野が紹介したワークショップがある日だ。私は演劇を嗜んだことはあるが基本的に人前が苦手だ。足が震える。今夜は一杯やってから寝よう。シャワーを浴びてから買い出しに向かった。

 「では、みなさん、輪になって牛タンゲームを始めましょう」
土曜日になり、私はワークショップに参加していた。お互いの挨拶を済ませると協調性を高めるための牛タンゲームが行われた。このワークショップは公民館で行われるカルチャースクールの一つして開催されている。参加者には、定年で仕事を辞め、第二の人生に演劇の世界を選んだ元会社役員とか、高校の演劇部に所属しながらオーディションに繋げるためにワークショップに通っている本格派など、老若男女、色々なバックグラウンドを持った10名程の人間が集まっていた。
 「今からやって貰うのは、体の部位を使って感情表現を行うことです。例えば、悲しみ、腕、と言ったら、腕を使って悲しみを表現して下さい。私が頭、喜び、と言ったら頭を使って喜びを表現して下さい。みなさん理解出来ましたか?」
演劇講師は流石の滑舌でハキハキと説明した。実は私はこの手の練習が嫌いだ。格好悪いからだ。私は役者は格好良くなければならないと思っていた。何故なら私が好きな役者は一様に格好いいからだ。こう言う練習を続けているとダサさが染み付きそうで嫌なのだ。イヤ、嫌だったのだ。私は現在役者でもなんでもないし、社会に出たからには嫌なことも受け入れなければならないと言うことも知っている。私は講師が肩で怒りを表現して下さい。と言い終わる前から全力で怒りを表現した。全力だけど静かな怒りだ。富良野、これでいいんだよな?
 ワークショップは終了の時刻を迎え、仲良くなった元会社役員と高校で演劇部の部長をやっている女の子とLINEを交換した。講師の方には…嫌われたかもしれない。
 アドレナリンが出たまま帰宅すると目安箱に早速投函された形跡があった。どんな事が書いてあるのか、緊張とワクワクが交互に押し寄せる。それはこんな書き出しから始まっていた。
『大家さん、こんにちは。リフォーム案を募集中との事ですが私は現在のコーポ工房に満足しております。どうしてもリフォームが必要なのでしたら受け入れますが、無理してお金をかけてなくてもコーポ工房の魅力は伝わると思います。ただ一つお願いがあるとしたら住人のフリをするのをやめて頂けませんか?こちらも気付かないフリをするのが大変なので』


 第三話 屋上のパパオ

 決戦だ。コーポエリーゼのお高くとまった住人達は私の演技力を軽く見ているだろう。だから1人芝居をやってみろなどと言う舐めた発言ができるのだ。どんな難しい役柄でもやり切ってやるさ。かかってこい。口が聞けないコメディアンの役か?それとも二重人格の政治家の話か?キリスト最後の瞬間でもいい。私はプレッシャーから妄想を繰り返し、重圧で押し潰されそうになっていた。
 日曜日の午前10時。天気は快晴。心地いい日差しに誘われて住人達も出てくるだろう。私は震える足を必死で抑え、郵便受けの前で住人を待つ事にした。
 ドアノブを回す音が聞こえて身構える。そこにグレーのニットを着た半眼の男が現れた。片目を瞑るその様子は中二病患者か柳生十兵衛か。
「こんにちは」
「こんにちは」
初対面の私に笑顔で挨拶を返す。中々の好青年だ。私は早速勝負に出た。
「1人芝居のことなのですが」
「は?」
「ごめんなさい。何でもないです」
気味悪がらせてしまった。1人芝居は共通の入居テストでは無かったのだ。となると、いつどこで芝居をする事になるのか?それともあの女の世迷言か?時刻は11時。後1時間もすれば腹を空かした猛獣共が巣穴から這い出てくる頃だ。私はボディバックからミニあんぱんを取り出して、4つある内の1つを食べた。
 ミニあんぱんを全部食べてしまった頃、金属製の階段を駆け降りる音で私は振り返った。出た。オレンジのマスコットを肩に乗せた女だ。私は冷静な顔へと表情を作り直して声を掛けた。
「こんにちは」
「…こんにちは」
女は小声でぼそぼそと返事をした。そしてそのまま通り過ぎようとするので、私は慌てた。
「あの、1人芝居は?」
「は?」
忘れているだと?お前から誘ったのに?女は、初めて聞く韓流アイドルの舌を噛みそうなメンバーの名前を言われた時みたいに、『知らねぇよ。』と言う顔をしている。
 大騒ぎした割にはつまらないオチだ。何のことはない、私だけが舞い上がっていた訳だ。
 気落ちして俯いている私の視界からは、女の姿は消えて行った。いかにも芸術家気取りの女にありがちな着物にスニーカーを合わせていた。そのスニーカーに蹴っ飛ばされてオレンジのぬいぐるみが転がってきた。どうやら肩から落ちてしまったようだ。私はそれを拾い上げる。オレンジには目と口がついていた。
「オレンジ君落ちましたよ」
女を呼び止めるために少し声を張った。戻ってきた女は礼も言わずにそれを受け取ると、「トマト」と強く言った。私が何のことか分からず黙っていると、
「この子はトマトなの」と女は言い直した。
『知らねぇよ』と言ってやりたかったが、私はワークショップ仕込みの表現力で胸を使って『知らねぇよ』の動きをした。

 さてやる事がなくなってしまった。気分転換が必要だった。ここがコーポ工房ならDIYをしたり掃除をするのだが。ふとゴミ捨て場を見ると、扉の前にタバコの吸い殻が捨ててあった。
『どこのアパートでもゴミ捨てのマナーを守れない人間がいるんだな』
私は吸い殻を拾い上げた。とその時、背後を猫が通り過ぎた気がした。しかしそれは猫では無かった。宮崎パヤオだった。ハンプティダンプティの様に1頭身の体に、小さな手足でトコトコ歩いている。全長30cmくらいの生き物。だが顔はパヤオだった。
 パヤオはタバコをふかしながら、吸い殻をポイ捨てしていく。私はそれを拾いながら後を追った。
 パヤオは104号室と105号室の間にある階段を登って行った。105号室に住み始めて間もないが、絶対にこんな所に階段は無かった。階段はどこまでも続いている。コーポエリーゼが大きめのアパートとは言え、登っても登っても階段が続いて行くのは異常だった。ようやく屋上に出た時、そこには緑の森が広がっていた。突如として私を取り巻く世界が変貌を遂げた。驚いた事に私の体までもが小学生の頃の姿にかわっている。
「来たか」
そのパヤオに似た生き物は少し甲高い、だけど迫力のある声で言った。
「きみは何をやっている?」
「僕は俳優です」
「珍しいな、ここに来る人間は大概物書きなんだが」
「小説の類いを書いた事は無いです」
「書いてみろ、ここに来れると言う事は才能があると言うことだ」
「やってみます。すみません、この場所は何なのですか?」
パヤオに似た生き物は、(私はパパオと呼ぶ事にした)タバコの煙を大きく吐き出した。そして吸い殻入れにタバコをしまった。吸い殻入れ、持っていたのか。
「ここは私の創造力が産んだ想像の世界だ。あれを見てみろ」
パパオは森の脇にある建物を指差した。
「あれは神々が湯浴みをするための温泉宿だ」
「知っています。あの作品の宿ですよね。この森もあの作品の森だ」
「この世界は私が作り出したものだが、私はこの世界から着想を得ている」
「卵が先か?鶏が先か?」
「そう、卵が先か、鶏が先かだ」
私は円を描きながら踊り始めた。
「オリジナルだけど、オリジナルじゃなかった」
パパオも後ろから続いてくる。
「オリジナルだけど、オリジナルじゃなかった」
凄い、凄い世界だ。この僕にも想像力がみなぎってくる。1人芝居の脚本を書けるような気になってきた。
「君、今、作品のネタを思い付いたろ?」
「どうして分かるんですか?」
パパオの視線の先にひょろりと痩せた男の姿がある。あれは、僕だ。
「この世界は私が作り出したものだが、皆の想像力の結晶でもある。あの男は君の想像の産物だ」
「どうしてこんな事が?」
パパオはトコトコと歩き出すと、突然こちらに振り返った。その目は僕を捉えてはいるが、その目の中に僕の姿はなく、パパオの頭の中に無限に広がる不思議な世界。その世界に想いを馳せているようだ。
「君、ファンタジー小説は読むかい?」
「読みません」
「あれは凄いよ。何の説明も無しに魔法や魔物が出てくる。普通なら何ページも使って説明しなきゃいけない筈だよ。ファンタジーの概念が世界中に共有できていないと出来ない芸当だ。私はね、同じ事をこの日本で出来ないかと思っているんだ。私の世界観を皆が共有し、そこから作品が生まれ、そして皆のアイディアによって世界が拡張していく。」
「つまりあなたが作りたいものは作品ではなく概念だと?」
「その通りだ」
僕はため息を付いた。壮大な計画だ。だけど成功のカギはこの世界に触れた者。いわばパヤオチルドレン達が成功を納めるかどうかに掛かっているように思う。
「さぁ、若者よ、自分の世界に帰る時間だ。私の力が必要になれば、吸い殻を辿ればいい。また私に会える筈だ」
 
 気が付くとコーポエリーゼの屋上に私はいた。いつの間にか小学生姿から28歳の自分に戻っていた。
「お帰り」
その声は富良野だった。そしてコーポエリーゼの住人が集まっていた。住人達は口々に「おめでとう」と私を祝福する。
「富良野どうして?」
「言ってなかったな。俺は学生時代コーポエリーゼに住んでいたんだ。顔馴染みの住人もいる」 
そう言う事か、富良野の奴、はめやがったな。
 私を見つめるコーポエリーゼの住人達。その期待に応えねばなるまい。
「105号室。怪々夢濁美。1人芝居。タイトルは…」
私は声の限りに叫んだ。
『THE FIRST ZOMBIE』







 
 

6/18/2024, 10:51:01 AM


6/18 レイトショー
私は今上り電車に乗っている。日比谷にある映画館に猿の惑星を見に行くためだ。何もこんな時間に日比谷くんだりまで出向いて行く必要はないじゃないかと思うのだが、最寄りの映画館にはもう吹替版しか上映していないのだ。批判を恐れず言わせてもらうと、吹替なんて洋画じゃない。翻訳された洋書を読むようなものだ。‥‥じゃあ、洋画か。とにかく、私は吹替を楽しめないのだ。21:00〜23:40の上映時間。そして日比谷から最寄り駅の終電時間は23:54。結構ギリギリだ。でも猿の惑星は見ないと。昔から猿の惑星が好きだ。感性が私と合っている。私は幼少期から人類と敵対して生きて来たのでそのせいかもしれない。職場の人間に今度猿の惑星を見に行くんだ。と言ってから1ヶ月以上経ってしまった。時は駆け抜けて行く。モスグリーンのセットアップに身を包んで、夜の街に急ぐ。

6/15/2024, 5:41:54 PM

ぜんぶ春のせい  修正

「保険なんですよね?」
「そうです、春を安心して生きるための保険、春保険です。」
その男は貼り付いた笑顔のままそう答えた。

〈3日前〉

 ハルヨは内定式に向かう道を意気揚々と歩いていた。4月から社会人生活が始まる。少し不安はあるが固い決意をもって仕事に臨もうとしていた。就職活動は困難を極め、やっと貰った内定。奨学金を支払うためにもカジリ付いてでも働かなくてはならない。スーツはパンツスタイルで春色のカバンを腕に掛け眼光鋭く泥舟商事へと向かった。
 泥舟商事のビルの前で人だかりができている。皆年若く、新品のスーツで身を包み、髪型も真面目なことが正義であると言わんばかりにまとめられていた。ハルヨと同じ新社会人であろう。若者たちはビルの入り口に掲示された貼り紙を見つめながら呆然とした顔を浮かべている。貼り紙にはこうある。

『内定取消通知書
本日、内定式出席予定の皆様へ
拝啓
時下ますますご清祥のこととお喜び申し上げます。
さて、泥舟商事におきましては、皆様方を2024年4月1日付けで入社していただく予定としておりましたが、誠に遺憾ながら、現在の業績悪化に伴い、やむを得ず皆様の内定を取り消させていただくこととなりました。
このような決定に至ったことは、当社にとっても大変心苦しいことであり…、』

 内定取消!ハルヨの視界がぐわんと歪み、立っていられなくなって両膝に手を付いた。顔を上げ辺りを見ると、会社に電話する者、抗議の声を上げる者、ショックで道路にへたり込む者、地獄絵図の様相だ。
 そんな中、ハルヨの隣から場違いの明るい女性の声が聞こえて来た。女性は電話をしているようだ。
「この場合も保険の対象になるんですか?助かったぁ。ええ、本当に。じゃあ、近日中に振り込まれるんですね?ありがとうございます。よろしくお願いします。」
そう言いながらスマホに向かってお辞儀をしている。
 私は思い切って話しかけてみた。
「何か良いことがあったんですか?」
「えっ?私ですか?ああ、今のやり取りを聞いていたんですね?特殊な保険があって、内定取消に対して保険金が降りるみたいなんですよ。」
「内定取消でも適用されるんですか?」
「興味があったら話を聞いてみたらどうですか?」
女性は名刺を差し出して来た。名刺にはこうある。
『グッドラブ生命 営業 救井ヨウ』

 〈現在に戻る。〉

 喫茶店にはビジネス街にあるお店らしくノートパソコンを広げたサラリーマンが多くいた。ハルヨは注文したアイスティにガムシロップを半分だけ入れた。救井ヨウは自分の頼んだコーヒーには手を付けず。その様子を笑顔で見つめていた。
「‥‥‥‥‥」
「‥‥‥‥‥」
「すみません、春保険について教えてくれますか?」
救井はタブレットを示しながらセールストークを始めた。
「例えば地震保険に入ったとします。年間8万円です。ところが地震が起こるのは春が多いと言うデータがあったとしたらどうでしょう?年間の保険金のうち、1/4は無駄な掛金だと感じませんか?そう言う方々のニーズに応えて出来たのが春保険なのです。」
「地震は春に多いのですか?」
「‥お客様、例えばの話でございます。」
救井は笑顔を崩さずに答えた。
 
 書棚ハルヨは元来保険を信用していない。今入っている生命保険も親に言われて仕方なく入ったものだ。それも近所付き合いの関係で書棚家の近所の保険勧誘員と契約を結んだものだ。春保険などと言う聞いたこともない胡散臭い保険に前のめりになれないのは仕方のないことだった。内定取消のショックが無ければ今日この場にいる事は無かっただろう。まぁ、保険に入るタイミングなんて将来に不安を感じた時と相場は決まっているが。
「なんで春なんですか?」
ハルヨは素朴な疑問を口にしてみた。
「私共の親会社は主にAIやアンドロイドの開発を行なっておりまして、独自のAI技術の活用によってより有効な保険を提供できるのではないかと考えたのです。実は私共の社名のグッドラブと言うのは『良い愛』が訛って『ええ愛』となる所から来ておりまして‥」
ここまで言い終えて救井は一拍置いた。
「AIに計算させた所、春保険がもっともお客様から需要があり、そして革新的なプランであると算出されたのです。」
「へぇ。」
AIと言う言葉を聞くだけでハルヨの春保険に対する信用度が上がった気がする。ハルヨは少し前のめりになった。
「春保険って今まで聞いたことなかったです。」
「私共の様な無名な保険会社ですと大手にはない革新的なサービスが必要になるのです。書棚様も最初聞いた時は驚いたでしょう?」
驚いたと言うより、怪しんだのだが救井のキラキラ光る瞳に見つめられ、ハルヨは「驚きました。」と嘘をついた。
 ハルヨは救井を羨ましいと思った。新しい事業は、やり甲斐があるだろう。何より商品を売り込む救井の態度は自信に溢れていた。『私も今頃就職してバリバリ働く筈だったのに』と思わずにはいられない。ハルヨは正直保険に入ってもいいと感じていた。必要性を感じたからではない、救井の熱意と春保険の革新性にあてられたのだ。しかし、手元の金がない。勤め先が決まっていないハルヨには月2万円はきつかった。空になったコップをそれでも尚ストローで啜りながらどうするか考えた。それをエサを前に待てをしている犬の様に
見つめる救井がいた。
「えーと、もうちょっと待って貰えますか?」
「‥書棚さん、保険は焦って契約する様な物ではないですよ、人生設計を立てて必要だと思ったらまた連絡を下さい。」
救井に心の内を見透かされている様でハルヨはすごすごと退散することにした。

 書棚家に帰るとハルヨの父親が首にコルセットを巻いていた。
「どうしたのお父さん?」
ハルヨの父は首を動かさず、目だけをハルヨに向けて答えた。
「事故に巻き込まれたんだよ、一歩間違えば死んでたかもしれないぞ。」
死という言葉を聞いてハルヨのボルテージは上がった。
「えっ?何があったの?」
「聞きたいか?俺の武勇伝。」
そう言うと、ハルヨの父はやや芝居がかった調子で続けた。
「それは外回りを終えて店に戻る時に起きた。」
書棚家はクリーニング店を経営していて、一般客以外にも会社相手の依頼を受ける時もある。そしてそんな時は、ハルヨの父親が店のワゴン車を使って依頼品の回収や配達を行うのだ。この日の外回りは近くのパチンコ店から制服を回収する事だった。
「春眠暁月を覚えず、などと言うが、居眠り運転の対向車がセンターラインを超えてこっちに突っ込んで来たんだ。俺はもうダメだと思って思わず目を瞑ってしまった。その時だ。時間の流れがまるでスローモーションになった様な感覚を得た。心眼が開いたんだ!」
ハルヨの父はどうだと言わんばかりに見得を切った。
ハルヨは無視して、「それで?」と促した。
「俺は思いっきりハンドルを右に切った。急速に接近する二台の車、対向車の左バンカーとこちらのバンカーがぶつかったかと思った瞬間、俺の正面から対向車は消え、『シュッ』と音を立てて交差して行った。俺はハンドルを切りながら同時にアクセルを踏んでいた。俺のワゴンが後輪を横滑りさせながら対向車線に侵入する。後続の車が突っ込んでくる目の前でワゴンはドリフトを決め、何事もなかったかの様にまた走り出す。居眠り運転の車がガードレールにぶつかり激しい音を立てた所で俺はようやく目を開けた。目を瞑ってから開けるまで1秒足らず。俺はその1秒で生死を分ける曲芸を演じて見せたのだ。シャツが冷や汗でじっとりと濡れいたよ。」
ハルヨの父はそう言い終えると、眉を寄せ、大仕事をやり終えたと言った風に深いため息をついた。
 ハルヨは父が事故を回避したこと、恐怖で目をつむりハンドルを切ったら、たまたまドリフトに成功したこと、そして興奮状態の父がそれを自分のテクニックの結果だという風に脳内変換している事を理解した。
「でも、車は避けたんでしょ?どうしてコルセットを巻いてるの?」
「普段運動不足なのに急に体に負荷がかかっただろ?そのせいでムチウチになっちゃって。」
武勇伝の勲章にしては情けないオチだ。
「だけどこれだけのことがあったのに自動車保険は降りないって言うんだよ。事故に遭った訳じゃないからって。それに比べて春保険はいいな。保証してくれるってよ。」
ハルヨは父から春保険と言うワードが出て来て驚いた。
「待って、今春保険って言った?」
「ああ言ったぞ。春保険って言うのはな、AIによって導き出された革新的な保険で‥」
「グッドラブ生命でしょ?知ってるわよ、春保険降りるの?」
ハルヨは父親によるセールストークの受け売りを遮った。
「春は居眠りが多い季節だから、それに関する被害は保証されるんだってさ。春保険はいいぞぉ。まだ入ってなければハルヨも入りなさい。」
「でもお金が。」
「何だそんなこと。保険金も降りるし俺が立て替えてやろう。」
「本当?父さん、ありがとう。」
ハルヨはその日のうちに救井に電話をし、翌日には契約を済ませていた。
 
 春保険が適用される期間は、3月、4月、5月の3ヶ月間だ。春に起きた事故なら何でも適用される訳ではなく、事故が春に関係していることが立証される場合、そして被害額が明確に分かる場合に限る。例えばハルヨが食らった内定取消の場合、内定取消が行われる時期は『春』と相場が決まっている。被害額は4月と5月の2か月分の給料額となる。内定取消の日にハルヨが出会った女の子、「小路ヒロコ」の話によると満額保証されたらしい。小路ヒロコとはあの事件をきっかけに仲良くなり連絡を取り合うようになった。
 逆に保証の対象にはならない場合は、3、4、5以外の月に被害に遭った場合。被害額が特定できない場合。春以外の季節が連想される場合。そして変わっているのが春以外の季語や季節の言葉が隠れている場合。例えば海、祭り、冷房、蚊、夕立などの季語や、懐かしい(夏かしい)、不愉快(冬かい)などの当て字が入る場合はダメらしい。このルールを決めたAIは俳句でもやらされていたのだろうか?
 春保険にはライト層向けの春保険サクラと、掛け金が上がる代わりに保証額が無制限になる春保険マンカイ。の2種類がある。ハルヨはマンカイに加入した。

 ハルヨとヒロコは同じ派遣会社に登録し、成金商事で事務スタッフとして働くことになった。事務と言っても新商品の宣伝やSNSの発信も行う。ハルヨが企画した新商品を紹介するイベントが成功した事で会社からは正規雇用に切り替えたいと言う話もされた。
「ハルヨは凄いよね、どんどん前に進んで行っちゃって。」
ハルヨとヒロコは昼休みに社食に来ていた。自然と仕事の話題になる。
「春保険に入ってからかな、失敗しても保険が守ってくれるって考えたら積極的に行動出来るようになったんだよね。こないだね、男をナンパしちゃった。」
「やるー。どんな男?」
「クラブで知り合ったんだけど、」
「クラブ!」
社交的ではないヒロコは、自分と対極にあるクラブと言う言葉に反応して、語尾が?と言うよりは!に、なっていた。
ハルヨはクラブなんてなんてこと無いと言った感じで「そう。」と返事して話を先に進めた。
「何だが場慣れしてなくて、居心地悪そうにしてる男がいたんだよ。それで声をかけたら友達に無理矢理連れて来られたって、意気投合してその友達を置いて抜け出しちゃった。」
「それでどうなったの?」
「今はその男の家で同棲してる。」
「ひゃー、とんとん拍子だなぁ。」
ハルヨの行動に目を輝かせていたヒロコであったが急に俯いて愚痴をこぼし始めた。
「それに比べて私は失敗ばかりだよ。この前イベントで使うモニターを運んでたんだけど、くしゃみをした拍子に倒して壊しちゃって。社員から怒られるし、5万円弁償させられるし散々だったよ。」
「まさかそれも?」
「うん、春保険で。花粉症が原因だから保証されるって。」

 仕事も恋も絶好調のハルヨだったが、1つ不満な事があった。春保険のお世話になった事ががないのだ。周りの人間からは春にまつわる失敗談を聞かされる。その度に春保険に入ってて良かっただとか、春保険に入っていれば安心だとか聞かされる。自分だけが春保険の恩恵にあずかれないのは不公平だ。好きな異性に振り向いて貰えない時のイライラと焦りと劣等感がないまぜになった感情が湧き上がっていた。
 もう5月に入っていた。電車を降りると汗ばんだのでコートをスプリングコートを脱いで腕に掛けた。ハルヨは身長165cmと抜群のプロモーションが映えるジャケットやコートを着がちだった。暑さと昨夜の夜ふかしでフラフラした。ハルヨは春保険に守られたくて無理をしていた。今月を逃すともう春保険の対象期間が終わってしまう。わざと睡眠時間を削って精神的に不安定になろうとしたり、過去5月に増水の被害が出た川や山に赴いた。山ではついでに適当な山菜を摘んできて生で食べた。はたから見たら滑稽だろう。だがハルヨとしては至極真剣、至って真面目なのであった。
 そんなだからであろう、美味しい話が身近な所から舞い込んできた時はニヤニヤが止まらなかった。いや、要するに怪しい話なのだが。ヒロコから折行って相談したい事があるので聞いて欲しいと頼まれたのだ。だが内容を聞こうとすると、頑なに答えない。まずはご飯を食べに行って、それから話すの一点張りだ。
 ハルヨは内心、ロクな内容では無いだろうと思っていた。そしてそれがハルヨをウキウキさせるのだった。 
 金曜日、仕事終わりにヒロコが予約した店に向かう。渋谷にこの春からオープンした天麩羅店だった。山菜や野菜をメインに春が旬の食材を出す天麩羅店であった。店名を春衣と言う。春が終わったら何をウリにするつもりだ?とハルヨは思ったが、その答えは後に判明する。
 料理は美味しかった。まずは春の天麩羅の定番、ふきのとう、タラの芽、わらび、菜の花と並ぶ。それを厳選された岩塩で頂くのだ。春野菜のふんわりとした柔らかさとサクサクの衣が絶妙な食感を作り出す。仄かな苦味と塩味、春の爽やかな風味が一体となる。その後はシラスのかき揚げ、ホタルイカの天麩羅と続き、最後に山菜ご飯の上に海老の天麩羅が乗ったあっさり天丼と竹筒の器に入った筍のお吸い物が出てきた。どの料理もハルヨを満足させる物だった。
 食事がひと段落して、ヒロコは話を切り出した。
「こちらね、大将の佐野ハルヒコさん、私の高校の同級生なの。」
「へぇー、高校の時から仲良かったの?」
「ううん、この前久しぶりに連絡貰ったの、お店をオープンしたからって。」
ははぁん。同級生に片っ端から電話をかけたな?その電話にヒロコは引っかかった訳だ。佐野の顔をチラリと見る。イケメンだな。誠実そうな見た目で信用させて、人を虜にするんだな。よく女優とかが、イケメンのチャラそうな芸能人と結婚して、浮気された挙句、泣きながら離婚会見を開いたりするが、ハルヨはなにが?と思う。浮気されそう男と結婚しといて浮気されたと怒るなんて。ハルヨの理想とするのは出来るだけ地味な男だ。性格的にも見た目的にも。今の彼氏の荒木アキオは正に理想の男だった。
 ヒロコの相談事とは佐野ハルヒコに関する事だった。この店舗は季節毎に料理人、提供する料理、食材、コンセプト、店名が変わる実験的な料理店だった。例えば春は春の食材を活かしたカレーを出す。夏は夏の食材活かした天麩羅を提供する。と言った具合に。
 しかし問題が起きた。店をオープンさせるに至って開業資金4000万を4人で分担する事になっていたのだが、春を担当していた料理人がとんずらしてしまった。佐野は本来夏を担当する予定だったが残った料理人と相談して佐野が春も兼務する事になった。問題は足りなくなった資金だ。何とか知人からかき集めたのだが、残り500万円足りない。それで迷惑な話だと思うがハルヨに協力して貰えないかと言うのだ。
「店舗が軌道に乗れば出資者の方には1割の金利をつけて返済する予定なんです。」
佐野は申し訳無さそうな顔で説明するが、赤の他人にそんなことを頼むなんて非常識じゃないか?とハルヨは思う。
「少しでもいいの、協力して貰えないかな?」
ヒロコは惚れた男のために必死になっている。騙されているとも知らずに。
「今すぐには返事できないわ。後日返事をするってことでいい?」
佐野とヒロコはまだ貸すとも言ってないのに礼を言い、お土産にふきのとうの天麩羅の天むすを持たせてくれた。
 アパートに帰ると荒木がインスタントラーメンを茹でていた。
「ごめんね、食べてきちゃって。」
「別にいいよ、親友からの相談事でしょ?で、何だって?」
ハルヨは春衣での出来事を話した。
「うわぁ、怪しいなぁ。ハルちゃん、絶対お金貸しちゃダメだよ。」
ハルヨは荒木の常識的な感覚に満足した。

 翌日の朝10時、ハルヨは救井と以前使った喫茶店にきていた。土曜日ということもありサラリーマン風の客は少ない。代わりに読書を楽しむラフな格好の客がチラホラいた。
ハルヨは早速本題を切り出した。
「例えば、5月に買った商品が、いつまでも届かなくて、詐欺だと気付いたのが6月だった場合は春保険で保証されますか?」
「‥買ったのは何の商品ですか?」
「スプリングコートです。」
「春用に買ったコートが届かなかったら困りますよね、もちろん保証致しますよ。」
「例えば、買ったのがスプリングコートではなくて、春をテーマにしたコンセプトカフェへの出資だったとして、5月以降に詐欺に遭ったと気付いた、もしくはそのコンカフェが潰れた場合、出資金は保証されますか?」
「‥スプリングコートではなかったのですか?」
救井は相変わらず笑顔を絶やさなかったが、ハルヨの不自然な質問が気になったのか、間を取ってから質問してきた。
ハルヨは取り繕って答えた。
「あくまで例えばの話ですので。」
「‥そうですか、ご心配なく、そのケースでも保険を適用させて頂きます。」
ハルヨは心の中でガッツポーズをした。
「書棚様、何か、心配事でもあるのですか?」
「いえいえ、そんな事ないですよ。」
ハルヨは救井に負けじと営業スマイルをした。

 救井と別れ、まだランチには早かったので雑貨店を見て回った。前から気になっていたアロマディフューザーを吟味する。サクラの香りがするデュフューザーの前で立ち止まる。ハルヨは今からすることに対して少なからず緊張していた。心臓の鼓動が早い。その鼓動に合わせてサクラの香りを吸い込んだ。だんだんと緊張が解けて深い呼吸を取り戻す。それだけで満足して店を出た。そして消費者金融に行って500万借りた。
「この度は共和国金融をご利用頂きありがとうございます。人を選ばずお金を融資するのが当店の特徴です。しかし、書棚さん、その代わり利子はしっかり頂きますよ。500万を何に使うか知りませんが、しっかりとした返済プランを考えておかないと大変な事になりますよ。脅す訳じゃありませんが私共は取り立てが大変上手でしてね。まぁ、あなたぐらいの美人なら稼ぐ方法はいくらでもありますがね。」
男はそう言うとへへっと笑った。貰った名刺には名倉カネミチとある。ハルヨはその名刺を財布にしまいたくなくてポーチに適当に突っ込んだ。消費者金融はビルの3階にある。エレベーターのボタンを押すと入れ違いで女が降りてきた。貧相な顔を厚化粧で誤魔化しているようだ。すれ違った時に肩がぶつかってしまった。
「ごめんなさい。」
ハルヨは女に声を掛けた。女は虚な目でこちらを見返した。
「あなた、若い頃の私に似ているわ。」
そう言うとフラフラと共和国金融に入っていった。
『冗談じゃない。あんなみっともない姿の女に私が似ているだなんて。どうせ安易に消費者金融に手を出して全てを吸い尽くされた。そんなとこでしょう。私は勝者。あいつは敗者。』ハルヨは憤りながらエレベーターを落ちていった。
 外に出るとすぐに佐野に連絡を取った。そして春衣に着くなり、500万円をカウンターに叩きつけた。佐野は呆気に取られている。
「こんなに受け取れないですよ。」
「タダであげるんじゃないわよ。借用書は貰っていくわよ。」
佐野は慌てて借用書にハンコを付いた。ハルヨは春衣を見回した。木を基調とした無駄のない内装は好感が持てた。が、客がいない。時間の問題かな。ハルヨは心の中で呟いた。

ハルヨは上機嫌で飲み屋街に繰り出した。
「全て終わった。後は時限爆弾が爆発するのを待てばいい。」
 500万円をカウンターに振り下ろした時の佐野の顔を思い出す。札束はその重みで『ドン』といい音がした。笑いが込み上げてきた。人生で500万円を人に貸すことなんてもう2度と無いだろう。ジェットコースターを乗った後の様にアドレナリンが出っ放しだ。ハルヨは荒木をバーに呼び出し祝杯をあげた。荒木は戸惑うばかりだが、
「まぁまぁ、気にしないで、今夜はアキオは払わなくていいから、私の奢りね。」
と言ってビールを注いだ。ハルヨはいつもよりも飲むペースが早いのを自覚している。だけど止められない。お酒が美味しすぎて。口元が緩んでヨダレが垂れそうだったので、ポーチからハンカチを取り出した。魔が悪いことにハンカチを出す勢いで名倉の名刺がポーチから飛び出した。名刺はヒラヒラと舞って荒木の足元へフワリと落ちる。
「共和国金融、名倉カネミチ?これどうしたの?」
「ああ、キャッチセールスだよ。無理矢理名刺を押し付けられちゃって。」
「キャッチって本当迷惑だよね。」
荒木は名倉の名刺をポケットに突っ込んだ。

 5月28日。春が終わるまで残り3日だ。季節外れの蚊に小指を刺されてハルヨは朝から機嫌が悪かった。出勤するとヒロコが急に会社を辞めていた。何かあったに違いない。ヒロコに連絡を取ってみた。電話に出たヒロコは切羽詰まった声をしている。
「黙って会社辞めちゃってごめんね、春衣が大変な事になってて、私も手伝う事になったの。詳細は今夜ハルヨの家に行ってから話すから一旦切るね。」
ハルヨとしては複雑の気分だった。あの佐野ハルヒコとか言う調子のいい男が泥沼にはまって行くのは構わない。だけど友達のヒロコが巻き込まれるのは忍びない。何とか2人の仲を引き裂かないといけないのだが、恋の障害は愛の着火剤になりかねない。ハルヨは夜になるまでヤキモキした気持ちを抱えながら過ごした。
 ヒロコがハルヨのアパート(実際は荒木のアパート)を訪ねて来るとハルヨは暖かく迎えてあげた。しかしヒロコはやおら左手を振りかぶると550万円をテーブルに叩きつけた。ヒロコは趣味が将棋という事で札束を人差し指と中指を立てた形で掴み、王手だと言わんばかりにピシリと叩きつけた。ハルヨは思わず『参りました。』と言いそうになった。
「春衣がハルナンデショ!に取り上げられて、お客さんが押し寄せて来ちゃって、もう忙しいのなんのって。だから私も手伝う事にしたんだ。あのね、実はハルヒコさんに告白されて、私達、結婚することにしたんだ。これ550万円。新しい出資者が見つかってバックアップしてくれることになったの。だから返済できることになったんだ。」
ヒロコは春の陽光の様な優しい明るさで現状を教えてくれた。それをハルヨは凍りついた氷柱の様に固まって聞いていた。ヒロコは明日も朝から仕込みの手伝いがあるとかで帰り支度を始めていた。
「ハルヨには本当に感謝しかない。お金を貸してくれたこともそうだけど、ハルヨがこの前企画したバスツアーのイベントを真似してみたんだ。お客さんに山菜を採ってもらってそれを佐野君にその場で天麩羅にして貰うの。それをハルナンデショが取り上げて、トントン拍子で人気店の仲間入り。落ち着いたらハルヨもまた来てよね。それじゃあ。」
ヒロコは跳ねるように帰って行った。
「私が?助け舟を出してしまったってこと?絶対潰れると思ったのに。でもまぁ、500万が550万になって返って来た訳だし、友達が幸せになった訳だし。結果オーライか。」
ハルヨは狐につままれた様な気分だったが、自分を納得させるように呟いた。そしてこの大金をどこに保管して置こうか思案した。この部屋に金庫などないし、結局荒木と相談してタンスの中にシャツで二重に包んで隠すことにした。
 この日は初夏の陽気だったが、夜になっても気温が下がらず寝苦しかった。荒木が布団から出て何やらゴソゴソしている。
「どうしたの?」
「いや、春ももう終わりだな。」
「黄昏てんじゃん。」
「明日毛布をコインランドリーに出して来るよ。」
「え?その準備?」
ただでさえ眠れないのにガサゴソ音を立てる荒木に苛立つも、その音を聞いている内にハルヨはいつの間にか寝てしまった。
 
 翌朝、スマホが鳴る音にハルヨは起こされた。荒木からだった。
「もしもし、アキオ?どうしたの?」
「サイフ忘れちゃって、コンビニの横のコインランドリーにいるから届けてくれない?」
「何やってるのよ。今から支度するから時間かかけど、いい?」
電話を切ってから軽く化粧をし、Tシャツの上からカーディガンを羽織った。髪を2.3回解かすとキャップを被り、そのまま飛び出した。コインランドリーに着くと店先で待っている荒木を見つけた。
「ほら、おサイフ。」
「ごめんね、現金だけなんだよなコインランドリーって。」
「いいよ別に。私、このまま消費者金融に行って来るからね。」
550万円を早く片付けたくて自転車を漕ぐ足に力が入る。アパートに着くと異変にはすぐに気付いた。ドアのカギが開いているのだ。
「なんで?絶対戸締まりしたのに。」
玄関を開けると部屋の中にあった物の配置が変わっている事に気付いた。慌てて寝室に向かう。500万円が入った引き出しが引っ張り出されているのを見て、心臓の鼓動がドクンと高鳴った。
「ない。」
ない。
「550万がない。」
550万円がない。
 一応タンス以外の場所も探したがやっぱり無かった。震える手で警察に連絡し、荒木にも電話をかけた。しかし荒木には繋がらなかった。
「アキオの奴何やってんのよ。」
警察が来るまでの間に他に何か盗まれたものがないか確認しようとしたが、現場の保持をするべきか悩んでやめた。ハルヨは部屋のものに触れないよう、うずくまってただただ警察を待っていた。550万円が戻ってこなければどうしたらいいだろう。春保険だ。春保険にすがるしかない。20分程そうして待っているとインターホンが鳴らされた。
「書棚さん、いらっしゃいますか?」
警官の声を聞いて危機一髪で現れるヒーローがやって来たように感じた。 警官はスーツの2人組と作業服を着た3人組の編成だった。作業服組はいわゆる鑑識と言う奴だろう。鑑識は来るなり手分けして部屋中調べ始めた。スーツの2人組がハルヨの元にやってきて告げた。
「書棚さん、今回はどうやら空き巣による犯行のようですが、残念ながら空き巣被害の場合盗品が戻ってくることは稀です。覚悟はしておいて下さい。」
ヒーローはいなかった。警官達は一所懸命調べてくれているようだが、大いなる消去法だ。つまりこの現場には犯人に繋がるものは何も無いという事を証明したいのだ。ハルヨは焦った。こんな所で待ちぼうけをしてる場合じゃない。警官が呼び止めるのを無視してハルヨは部屋を飛び出した。
『私のヒーローはグッドラブ生命だ。春保険しか無い。』
ハルヨは喫茶店に駆け込むと救井ヨウを呼び出した。持っている間に何度も荒木にLINEするが返事はない。
 急な呼び出しにも関わらず、救井は15分ほどでやって来た。
「書棚さま、いかがなさいましたか?」
「500万円取られたんです。これは春保険で保証されますか?」
「‥書棚さま、詳しくお話し頂けますか?」
ハルヨは事情を説明した。救井は笑顔を保ったままだ。これは保証されるって事でOK?
「書棚さん、空き巣被害は『秋す被害』春ではなくて秋の案件です。」
そうだった春以外の季節の当て字が入るとダメなんだった。みんなが寄ってたかって自分をいじめてくる。ハルヨはそんな気持ちだった。そもそも何でこんなことになった?空き巣犯はどうやってドアを開けたんだ?カギは閉めたのに。冷静に考えるとおかしな点が何個かある。ハルヨが家を空けたのは10分程だ。その間にアパートの中からあの部屋を選び、カギを開け、550万円の隠し場所を特定する。そんなことが可能なのか?そもそもどうしてあの部屋に目を付けたのか?
 アキオか?アキオが空き巣犯に協力したんではないか?そう言えば昨日500万円を消費者金融から借りたのを知った時反応が無かった。あれだけお金を貸すのを反対してたのに。不自然に夜中にコインランドリーに行く準備したり、今朝の電話も怪しかった。
アキオか?秋生かぁ。ハルヨは後悔した。男を選ぶ基準は地味かどうかなんかじゃない。名前に春が入っているかどうかで選ぶべきだった。佐野ハルヒコ。あの男が理想の男だったか。
「救井さん、そんなダジャレみたいな理由で拒否しないで助けて下さいよ。」
「決まりですので。」
「酷いじゃないですか?救井さんは血も涙も無いんですか?」
「‥書棚さん、何か勘違いされていますね?私は血も涙も無いんです。初めに説明しましたよね?親会社はAIとアンドロイドを開発しているって。私はアンドロイドです。」
確かに笑顔は張り付いてるし、話し出す前に考え込むようなことはあったけれど、ロボットだからだったってこと?
「あなた、ロボットなんだったら教えなさいよ!私が500万円工面する方法を。」
「コツコツ働いて返すのが1番いいのではないですか。」
救井の声はいつもより無機質に聞こえた。
ハルヨは突っ伏して、額をテーブルに擦り付けた。そして筋肉を緊張させ体を前後にゆすり出した。そして数分そのままの動きを続けた後、ピタッと止まり、急にガバっと顔を上げた。目が血走り、歯を剥いてたその姿は鬼婆のようだった。
春代は叫んだ。
「やってやるわよ。わたし自身を売り飛ばしてやるわよ。売春よ。」
救井のCPUが素早く計算した。もし売春のストレスによって健康被害が発生したら、それは保証の対象になるだろう。しかしそれをハルヨに教えることはない。聞かれたことしか答えない。それがAIだから。

 


6/7/2024, 3:14:55 PM

ぜんぶ春のせい

「保険なんですよね?」
「そうです、春を安心して生きるための保険、春保険です。」
その男は貼り付いた笑顔でそう答えた。

〈3日前〉

 ハルヨは内定式に向かう道を意気揚々と歩いていた。4月から社会人生活が始まる。少し不安はあるが固い決意をもって仕事に臨もうとしていた。就職活動は困難を極め、やっと貰った内定。奨学金を支払うためにもカジリ付いてでも働かなくてはならない。スーツはパンツスタイルで春色のカバンを腕に掛け眼光鋭く泥舟商事へと向かった。
 泥舟商事のビルの前で人だかりができている。皆年若く、新品のスーツで身を包み、髪型も真面目なことが正義であると言わんばかりにまとめられていた。ハルヨと同じ新社会人であろう。若者たちはビルの入り口に掲示された貼り紙を見つめながら呆然とした顔を浮かべている。貼り紙にはこうある。

『内定取消通知書
本日、内定式出席予定の皆様へ
拝啓
時下ますますご清祥のこととお喜び申し上げます。
さて、泥舟商事におきましては、皆様方を2024年4月1日付けで入社していただく予定としておりましたが、誠に遺憾ながら、現在の業績悪化に伴い、やむを得ず皆様の内定を取り消させていただくこととなりました。
このような決定に至ったことは、当社にとっても大変心苦しいことであり…、』

 内定取消!ハルヨの視界がぐわんと歪み、立っていられなくなって両膝に手を付いた。顔を上げ辺りを見ると、会社に電話する者、抗議の声を上げる者、ショックで道路にへたり込む者、地獄絵図の様相だ。
 そんな中、ハルヨの隣から場違いの明るい女性の声が聞こえて来た。女性は電話をしているようだ。
「この場合も保険の対象になるんですか?助かったぁ。ええ、本当に。じゃあ、近日中に振り込まれるんですね?ありがとうございます。よろしくお願いします。」
そう言いながらスマホに向かってお辞儀をしている。
 私は思い切って話しかけてみた。
「何か良いことがあったんですか?」
「えっ?私ですか?ああ、今のやり取りを聞いていたんですね?特殊な保険があって、内定取消に対して保険金が降りるみたいなんですよ。」
「内定取消でも適用されるんですか?」
「興味があったら話を聞いてみたらどうですか?」
女性は名刺を差し出して来た。名刺にはこうある。
『グッドラブ生命 営業 救井ヨウ』

 〈現在に戻る。〉

 喫茶店にはビジネス街にあるお店らしくノートパソコンを広げたサラリーマンが多くいた。救井ヨウはタブレットを示しながらスラスラとセールストークを繰り広げる。
「例えば地震保険に入ったとします。年間8万円です。ところが地震が起こるのは春が多いと言うデータがあったとしたらどうでしょう?年間の保険金のうち、1/4は無駄な掛金だと感じませんか?そう言う方々のニーズに応えて出来たのが春保険なのです。」
「地震は春に多いのですか?」
「‥お客様、例えばの話でございます。」
救井は笑顔を崩さずに答えた。
 
 書棚ハルヨは元来保険を信用していない。今入っている生命保険も親に言われて仕方なく入ったものだ。それも近所付き合いの関係で書棚家の近所の保険勧誘員と契約を結んだものだ。春保険などと言う聞いたこともない胡散臭い保険に前のめりになれないのは仕方のないことだった。内定取消のショックが無ければ今日この場にいる事は無かっただろう。まぁ、保険に入るタイミングなんて将来に不安を感じた時と相場は決まっているが。
「なんで春なんですか?」
ハルヨは素朴な疑問を口にしてみた。
「私共の親会社は主にAIやアンドロイドの開発を行なっておりまして、独自のAI技術の活用によってより有効な保険を提供できるのではないかと考えたのです。実は私共の社名のグッドラブと言うのは『良い愛』が訛って『ええ愛』となる所から来ておりまして‥」
ここまで言い終えて救井は一拍置いた。
「AIに計算させた所、春保険がもっともお客様から需要があり、そして革新的なプランであると算出されたのです。」
「へぇ。」
AIと言う言葉を聞くだけでハルヨの春保険に対する信用度が上がった気がする。
「私共の様な無名な保険会社ですと大手にはない革新的なサービスが必要になるのです。書棚様も最初聞いた時驚いたでしょう?」
驚いたと言うより、怪しんだのだが救井のキラキラ光る瞳に見つめられ、ハルヨは「驚きました。」と嘘をついた。
 ハルヨは救井を羨ましいと思った。新しい事業は、やり甲斐があるだろう。何より商品を売り込む救井の態度は自信に溢れていた。『私も今頃就職してバリバリ働く筈だったのに』と思わずにはいられない。ハルヨは正直保険に入ってもいいと感じていた。必要性を感じたからではない、救井の熱意と春保険の革新性にあてられたのだ。しかし、手元の金がない。勤め先が決まっていないハルヨには月2万円はきつか^_^った。苦悶の表情を浮かべるハルヨを見兼ねて救井は声をかけた。
「‥書棚さん、保険は焦って契約する様な物ではないですよ、人生設計を立てて必要だと思ったら連絡を下さい。」
救井の心の内を透かす物言いにハルヨはすごすごと退散することにした。

 書棚家に帰るとハルヨの父親が首にコルセットを巻いていた。
「どうしたのお父さん?」
ハルヨの父は首を動かさず、目だけをハルヨに向けて答えた。
「事故に巻き込まれたんだよ、一歩間違えば死んでたかもしれないぞ。」
死という言葉を聞いてハルヨのボルテージは上がった。
「えっ?何があったの?」
「聞きたいか?俺の武勇伝。」
そう言うと、ハルヨの父はやや芝居がかった調子で続けた。
「それは外回りを終えて店に戻る時に起きた。」
書棚家はクリーニング店を経営していて、一般客以外にも会社相手の依頼を受ける時もある。そしてそんな時は、ハルヨの父親が店のワゴン車を使って依頼品の回収や配達を行うのだ。この日の外回りは近くのパチンコ店から制服を回収する事だった。
「春眠暁月を覚えず、などと言うが、居眠り運転の対向車がセンターラインを超えてこっちに突っ込んで来たんだ。俺はもうダメだと思って思わず目を瞑ってしまった。その時だ。時間の流れがまるでスローモーションになった様な感覚を得た。心眼が開いたんだ!」
ハルヨの父はどうだと言わんばかりに見得を切った。
ハルヨは無視して、「それで?」と促した。
「俺は思いっきりハンドルを右に切った。急速に接近する二台の車、対向車の左バンカーとこちらのバンカーがぶつかったかと思った瞬間、俺の正面から対向車は消え、『シュッ』と音を立てて交差して行った。俺はハンドルを切りながら同時にアクセルを踏んでいた。俺のワゴンが後輪を横滑りさせながら対向車線に侵入する。後続の車が突っ込んでくる目の前でワゴンはドリフトを決め、何事もなかったかの様にまた走り出す。居眠り運転の車がガードレールにぶつかり激しい音を立てた所で俺はようやく目を開けた。目を瞑ってから開けるまで1秒足らず。俺はその1秒で生死を分ける曲芸を演じて見せたのだ。シャツが冷や汗でじっとりと濡れいたよ。」
ハルヨの父はそう言い終えると、眉を寄せ、大仕事をやり終えたと言った風に深いため息をついた。
 ハルヨは父が事故を回避したこと、恐怖で目をつむりハンドルを切ったら、たまたまドリフトに成功したこと、そして興奮状態の父がそれを自分のテクニックの結果だという風に脳内変換している事を理解した。
「でも、車は避けたんでしょ?どうしてコルセットを巻いてるの?」
「普段運動不足なのに急に体に負荷がかかっただろ?そのせいでムチウチになっちゃって。」
武勇伝の勲章にしては情けないオチだ。
「だけどこれだけのことがあったのに自動車保険は降りないって言うんだよ。事故に遭った訳じゃないからって。それに比べて春保険はいいな。保証してくれるってよ。」
ハルヨは父から春保険と言うワードが出て来て驚いた。
「待って、今春保険って言った?」
「ああ言ったぞ。春保険って言うのはな、AIによって導き出された革新的な保険で‥」
「グッドラブ生命でしょ?知ってるわよ、春保険降りるの?」
ハルヨは父親によるセールストークの受け売りを遮った。
「春は居眠りが多い季節だから、それに関する被害は保証されるんだってさ。春保険はいいぞぉ。まだ入ってなければハルヨも入りなさい。」
「でもお金が。」
「何だそんなこと。保険金も降りるし俺が立て替えてやろう。」
「本当?父さん、ありがとう。」
ハルヨはその日のうちに救井に電話をし、翌日には契約を済ませていた。
 
 春保険が適用される期間は、3月、4月、5月の3ヶ月間だ。春に起きた事故なら何でも適用される訳ではなく、事故が春に関係していることが立証される場合、そして被害額が明確に分かる場合に限る。例えばハルヨが食らった内定取消の場合、内定取消が行われる時期は『春』と相場が決まっている。被害額は4月と5月の2か月分の給料額となる。内定取消の日にハルヨが出会った女の子、「小路ヒロコ」の話によると満額保証されたらしい。小路ヒロコとはあの事件をきっかけに仲良くなり連絡を取り合うようになった。
 逆に保証の対象にはならない場合は、3、4、5以外の月に被害に遭った場合。被害額が特定できない場合。春以外の季節が連想される場合。そして変わっているのが春以外の季語や季節の言葉が隠れている場合。例えば海、祭り、冷房、蚊、夕立などの季語や、懐かしい(夏かしい)、不愉快(冬かい)などの当て字が入る場合はダメらしい。このルールを決めたAIは俳句でもやらされていたのだろうか?
 春保険にはライト層向けの春保険サクラと、掛け金が上がる代わりに保証額が無制限になる春保険マンカイ。の2種類がある。ハルヨはマンカイに加入した。

 ハルヨとヒロコは同じ派遣会社に登録し、成金商事で事務スタッフとして働くことになった。事務と言っても新商品の宣伝やSNSの発信も行う。ハルヨが企画した新商品を紹介するイベントが成功した事で会社からは正規雇用に切り替えたいと言う話もされた。
「ハルヨは凄いよね、どんどん前に進んで行っちゃって。」
ハルヨとヒロコは昼休みに社食に来ていた。自然と仕事の話題になる。
「春保険に入ってからかな、失敗しても保険が守ってくれるって考えたら積極的に行動出来るようになったんだよね。こないだね、男をナンパしちゃった。」
「やるー。どんな男?」
「クラブで知り合ったんだけど、」
「クラブ!」
社交的ではないヒロコは、自分と対極にあるクラブと言う言葉に反応して、語尾が?と言うよりは!に、なっていた。
ハルヨはクラブなんてなんてこと無いと言った感じで「そう。」と返事して話を先に進めた。
「何だが場慣れしてなくて、居心地悪そうにしてる男がいたんだよ。それで声をかけたら友達に無理矢理連れて来られたって、意気投合してその友達を置いて抜け出しちゃった。」
「それでどうなったの?」
「今はその男の家で同棲してる。」
「ひゃー、とんとん拍子だなぁ。」
ハルヨの行動に目を輝かせていたヒロコであったが急に俯いて愚痴をこぼし始めた。
「それに比べて私は失敗ばかりだよ。この前イベントで使うモニターを運んでたんだけど、くしゃみをした拍子に倒して壊しちゃって。社員から怒られるし、5万円弁償させられるし散々だったよ。」
「まさかそれも?」
「うん、春保険で。花粉症が原因だから保証されるって。」

 仕事も恋も絶好調のハルヨだったが、1つ不満な事があった。春保険のお世話になった事ががないのだ。周りの人間からは春にまつわる失敗談を聞かされる。その度に春保険に入ってて良かっただとか、春保険に入っていれば安心だとか聞かされる。自分だけが春保険の恩恵にあずかれないのは不公平だ。好きな異性に振り向いて貰えない時のイライラと焦りと劣等感がないまぜになった感情が湧き上がっていた。
 もう5月に入っていた。電車を降りると汗ばんだのでコートをスプリングコートを脱いで腕に掛けた。ハルヨは身長165cmと抜群のプロモーションが映えるジャケットやコートを着がちだった。暑さと昨夜の夜ふかしでフラフラした。ハルヨは春保険に守られたくて無理をしていた。今月を逃すともう春保険の対象期間が終わってしまう。わざと睡眠時間を削って精神的に不安定になろうとしたり、過去5月に増水の被害が出た川や山に赴いた。山ではついでに適当な山菜を摘んできて生で食べた。はたから見たら滑稽だろう。だがハルヨとしては至極真剣、至って真面目なのであった。
 そんなだからであろう、美味しい話が身近な所から舞い込んできた時はニヤニヤが止まらなかった。いや、要するに怪しい話なのだが。ヒロコから折行って相談したい事があるので聞いて欲しいと頼まれたのだ。だが内容を聞こうとすると、頑なに答えない。まずはご飯を食べに行って、それから話すの一点張りだ。
 ハルヨは内心、ロクな内容では無いだろうと思っていた。そしてそれがハルヨをウキウキさせるのだった。 
 金曜日、仕事終わりにヒロコが予約した店に向かう。渋谷にこの春からオープンした天麩羅店だった。山菜や野菜をメインに春が旬の食材を出す天麩羅店であった。店名を春衣と言う。春が終わったら何をウリにするつもりだ?とハルヨは思ったが、その答えは後に判明する。
 料理は美味しかった。まずは春の天麩羅の定番、ふきのとう、タラの芽、わらび、菜の花と並ぶ。それを厳選された岩塩で頂くのだ。春野菜のふんわりとした柔らかさとサクサクの衣が絶妙な食感を作り出す。仄かな苦味と塩味、春の爽やかな風味が一体となる。その後はシラスのかき揚げ、ホタルイカの天麩羅と続き、最後に山菜ご飯の上に海老の天麩羅が乗ったあっさり天丼と竹筒の器に入った筍のお吸い物が出てきた。どの料理もハルヨを満足させる物だった。
 食事がひと段落して、ヒロコは話を切り出した。
「こちらね、大将の佐野ハルヒコさん、私の高校の同級生なの。」
「へぇー、高校の時から仲良かったの?」
「ううん、この前久しぶりに連絡貰ったの、お店をオープンしたからって。」
ははぁん。同級生に片っ端から電話をかけたな?その電話にヒロコは引っかかった訳だ。佐野の顔をチラリと見る。イケメンだな。誠実そうな見た目で信用させて、人を虜にするんだな。よく女優とかが、イケメンのチャラそうな芸能人と結婚して、浮気された挙句、泣きながら離婚会見を開いたりするが、ハルヨはなにが?と思う。浮気されそう男と結婚しといて浮気されたと怒るなんて。ハルヨの理想とするのは出来るだけ地味な男だ。性格的にも見た目的にも。今の彼氏の荒木アキオは正に理想の男だった。
 ヒロコの相談事とは佐野ハルヒコに関する事だった。この店舗は季節毎に料理人、提供する料理、食材、コンセプト、店名が変わる実験的な料理店だった。例えば春は春の食材を活かしたカレーを出す。夏は夏の食材活かした天麩羅を提供する。と言った具合に。
 しかし問題が起きた。店をオープンさせるに至って開業資金4000万を4人で分担する事になっていたのだが、春を担当していた料理人がとんずらしてしまった。佐野は本来夏を担当する予定だったが残った料理人と相談して佐野が春も兼務する事になった。問題は足りなくなった資金だ。何とか知人からかき集めたのだが、残り500万円足りない。それで迷惑な話だと思うがハルヨに協力して貰えないかと言うのだ。
「店舗が軌道に乗れば出資者の方には1割の金利をつけて返済する予定なんです。」
佐野は申し訳無さそうな顔で説明するが、赤の他人にそんなことを頼むなんて非常識じゃないか?とハルヨは思う。
「少しでもいいの、協力して貰えないかな?」
ヒロコは惚れた男のために必死になっている。騙されているとも知らずに。
「今すぐには返事できないわ。後日返事をするってことでいい?」
佐野とヒロコはまだ貸すとも言ってないのに礼を言い、お土産にふきのとうの天麩羅の天むすを持たせてくれた。
 アパートに帰ると荒木がインスタントラーメンを茹でていた。
「ごめんね、食べてきちゃって。」
「別にいいよ、親友からの相談事でしょ?で、何だって?」
ハルヨは春衣での出来事を話した。
「うわぁ、怪しいなぁ。ハルちゃん、絶対お金貸しちゃダメだよ。」
ハルヨは荒木の常識的な感覚に満足した。

 翌日の朝10時、ハルヨは救井と以前使った喫茶店にきていた。土曜日ということもありサラリーマン風の客は少ない。代わりに読書を楽しむラフな格好の客がチラホラいた。
ハルヨは早速本題を切り出した。
「例えば、5月に買った商品が、いつまでも届かなくて、詐欺だと気付いたのが6月だった場合は春保険で保証されますか?」
「‥買ったのは何の商品ですか?」
「スプリングコートです。」
「春用に買ったコートが届かなかったら困りますよね、もちろん保証致しますよ。」
「例えば、買ったのがスプリングコートではなくて、春をテーマにしたコンセプトカフェへの出資だったとして、5月以降に詐欺に遭ったと気付いた、もしくはそのコンカフェが潰れた場合、出資金は保証されますか?」
「‥スプリングコートではなかったのですか?」
救井は相変わらず笑顔を絶やさなかったが、ハルヨの不自然な質問が気になったのか、間を取ってから質問してきた。
ハルヨは取り繕って答えた。
「あくまで例えばの話ですので。」
「‥そうですか、ご心配なく、そのケースでも保険を適用させて頂きます。」
ハルヨは心の中でガッツポーズをした。
「書棚様、何か、心配事でもあるのですか?」
「いえいえ、そんな事ないですよ。」
ハルヨは救井に負けじと営業スマイルをした。

 救井と別れ、まだランチには早かったので雑貨店を見て回った。前から気になっていたアロマディフューザーを吟味する。サクラの香りがするデュフューザーの前で立ち止まる。ハルヨは今からすることに対して少なからず緊張していた。心臓の鼓動が早い。その鼓動に合わせてサクラの香りを吸い込んだ。だんだんと緊張が解けて深い呼吸を取り戻す。それだけで満足して店を出た。そして消費者金融に行って500万借りた。
「この度は共和国金融をご利用頂きありがとうございます。人を選ばずお金を融資するのが当店の特徴です。しかし、書棚さん、その代わり利子はしっかり頂きますよ。500万を何に使うか知りませんが、しっかりとした返済プランを考えておかないと大変な事になりますよ。脅す訳じゃありませんが私共は取り立てが大変上手でしてね。まぁ、あなたぐらいの美人なら稼ぐ方法はいくらでもありますがね。」
男はそう言うとへへっと笑った。貰った名刺には名倉カネミチとある。ハルヨはその名刺を財布にしまいたくなくてポーチに適当に突っ込んだ。消費者金融はビルの3階にある。エレベーターのボタンを押すと入れ違いで女が降りてきた。貧相な顔を厚化粧で誤魔化している。安易に消費者金融に手を出して全てを吸い尽くされた。そんな類いの女だった。ハルヨは勝者が敗者を見下すように憐れみを感じた。
 すぐに佐野に連絡を取り、春衣にやって来ると、500万円をカウンターに叩きつけた。佐野は口をあんぐり開けて驚いた。これで全て終わった。後は時限爆弾が爆発するのを待てばいい。
 500万円を鷲掴みにしてカウンターに振り下ろした時、その重みで『ドン』といい音がした。その音と佐野の表情を思い出しハルヨはクスッと微笑んだ。上機嫌のハルヨは荒木をバーに呼び出し祝杯をあげた。荒木は戸惑うばかりだが、
「まぁまぁ、気にしないで、今夜はアキオは払わなくていいから、私の奢りね。」
と言ってビールを注いだ。ハルヨはいつもよりも飲むペースが早いのを自覚している。だけど止められない。お酒が美味しすぎて。口元が緩んでヨダレが垂れそうだったので、ポーチからハンカチを取り出した。魔が悪いことにハンカチを出す勢いで名倉の名刺がポーチから飛び出した。名刺はヒラヒラと舞って荒木の足元へフワリと落ちる。
「共和国金融、名倉カネミチ?これどうしたの?」
「ああ、キャッチセールスだよ。無理矢理名刺を押し付けられちゃって。」
「キャッチって本当迷惑だよね。」
荒木は名倉の名刺をポケットに突っ込んだ。

 5月28日。春が終わるまで残り3日だ。季節外れの蚊に小指を刺されてハルヨは朝から機嫌が悪かった。出勤するとヒロコが急に会社を辞めていた。何かあったに違いない。ヒロコに連絡を取ってみた。電話に出たヒロコは切羽詰まった声をしている。
「黙って会社辞めちゃってごめんね、春衣が大変な事になってて、私も手伝う事になったの。詳細は今夜ハルヨの家に行ってから話すから一旦切るね。」
ハルヨとしては複雑の気分だった。あの佐野ハルヒコとか言う調子のいい男が泥沼にはまって行くのは構わない。だけど友達のヒロコが巻き込まれるのは忍びない。何とか2人の仲を引き裂かないといけないのだが、恋の障害は愛の着火剤になりかねない。ハルヨは夜になるまでヤキモキした気持ちを抱えながら過ごした。
 ヒロコがハルヨのアパート(実際は荒木のアパート)を訪ねて来るとハルヨは暖かく迎えてあげた。しかしヒロコはやおら左手を振りかぶると550万円をテーブルに叩きつけた。ヒロコは趣味が将棋という事で札束を人差し指と中指を立てた形で掴み、王手だと言わんばかりにピシリと叩きつけた。ハルヨは思わず『参りました。』と言いそうになった。
「春衣がハルナンデショ!に取り上げられて、お客さんが押し寄せて来ちゃって、もう忙しいのなんのって。だから私も手伝う事にしたんだ。あのね、実はハルヒコさんに告白されて、私達、結婚することにしたんだ。これ550万円。新しい出資者が見つかってバックアップしてくれることになったの。だから返済できることになったんだ。」
ヒロコは春の陽光の様な優しい明るさで現状を教えてくれた。それをハルヨは凍りついた氷柱の様に固まって聞いていた。ヒロコは明日も朝から仕込みの手伝いがあるとかで帰り支度を始めていた。
「ハルヨには本当に感謝しかない。お金を貸してくれたこともそうだけど、ハルヨがこの前企画したバスツアーのイベントを真似してみたんだ。お客さんに山菜を採ってもらってそれを佐野君にその場で天麩羅にして貰うの。それをハルナンデショが取り上げて、トントン拍子で人気店の仲間入り。落ち着いたらハルヨもまた来てよね。それじゃあ。」
ヒロコは跳ねるように帰って行った。
「私が?助け舟を出してしまった訳?絶対潰れると思ったのに。でもまぁ、500万が550万になって返って来た訳だし、友達が幸せになった訳だし。結果オーライか。」
ハルヨは狐につままれた様な気分だったが、自分を納得させるように呟いた。そしてこの大金をどこに保管して置こうか思案した。この部屋に金庫などないし、結局荒木と相談してタンスの中にシャツで二重に包んで隠すことにした。
 この日は初夏の陽気だったが、夜になっても気温が下がらず寝苦しかった。荒木が布団から出て何やらゴソゴソしている。
「どうしたの?」
「いや、春ももう終わりだな。」
「黄昏てんじゃん。」
「明日毛布をコインランドリーに出して来るよ。」
「え?その準備?」
ただでさえ眠れないのガサゴソやらないでよ。と思いつつ、ガサゴソを聞いている内にいつの間にか寝てしまった。
 
 翌朝、スマホが鳴る音でハルヨは目が覚めた。荒木からだった。
「もしもし、アキオ?どうしたの?」
「サイフ忘れちゃって、コンビニの横のコインランドリーにいるから届けてくれない?」
「何やってるのよ。今から支度するから時間かかけど、いい?」
電話を切ってから軽く化粧をし、Tシャツの上からカーディガンを羽織った。髪を2.3回解かすとキャップを被り、そのまま飛び出した。コインランドリーに着くと店先で待っている荒木を見つけた。
「ほら、おサイフ。」
「ごめんね、現金だけなんだよなコインランドリーって。」
「いいよ別に。私、このまま消費者金融に行って来るからね。」
550万円を早く片付けたくて自転車を漕ぐ足に力が入る。アパートに着くと異変にはすぐに気付いた。ドアのカギが開いているのだ。
「なんで?絶対戸締まりしたのに。」
玄関を開けると部屋の中にあった物の配置が変わっている事に気付いた。慌てて寝室に向かう。500万円が入った引き出しが引っ張り出されているのを見て、心臓の鼓動がドクンと高鳴った。
「ない。」
ない。
「550万がない。」
550万円がない。
 一応タンス以外の場所も探したがやっぱり無かった。震える手で警察に連絡し、荒木にも電話をかけた。しかし荒木には繋がらなかった。
「アキオの奴何やってんのよ。」
警察が来るまでの間に他に何か盗まれたものがないか確認しようとしたが、現場の保持をするべきか悩んでやめた。ハルヨは部屋のものに触れないよう、うずくまってただただ警察を待っていた。550万円が戻ってこなければどうしたらいいだろう。春保険だ。春保険にすがるしかない。20分程そうして待っているとインターホンが鳴らされた。
「書棚さん、いらっしゃいますか?」
警官の声を聞いて危機一髪で現れるヒーローがやって来たように感じた。 警官はスーツの2人組と作業服を着た3人組の編成だった。作業服組はいわゆる鑑識と言う奴だろう。鑑識は来るなり手分けして部屋中調べ始めた。スーツの2人組がハルヨの元にやってきて告げた。
「書棚さん、今回はどうやら空き巣による犯行のようですが、残念ながら空き巣被害の場合盗品が戻ってくることは稀です。覚悟はしておいて下さい。」
ヒーローはいなかった。警官達は一所懸命調べてくれているようだが、大いなる消去法だ。つまりこの現場には犯人に繋がるものは何も無いという事を証明したいのだ。ハルヨは焦った。こんな所で待ちぼうけをしてる場合じゃない。警官が呼び止めるのを無視してハルヨは部屋を飛び出した。
『私のヒーローはグッドラブ生命だ。春保険しか無い。』
ハルヨは喫茶店に駆け込むと救井ヨウを呼び出した。持っている間に何度も荒木にLINEするが返事はない。
 急な呼び出しにも関わらず、救井は15分ほどでやって来た。
「書棚さま、いかがなさいましたか?」
「500万円取られたんです。これは春保険で保証されますか?」
「‥書棚さま、詳しくお話し頂けますか?」
ハルヨは事情を説明した。救井は笑顔を保ったままだ。これは保証されるって事でOK?
「書棚さん、空き巣被害は『秋す被害』春ではなくて秋の案件です。」
そうだった春以外の季節の当て字が入るとダメなんだった。みんなが寄ってたかって自分をいじめてくる。ハルヨはそんな気持ちだった。そもそも何でこんなことになった?空き巣犯はどうやってドアを開けたんだ?カギは閉めたのに。冷静に考えるとおかしな点が何個かある。ハルヨが家を空けたのは10分程だ。その間にアパートの中からあの部屋を選び、カギを開け、550万円の隠し場所を特定する。そんなことが可能なのか?そもそもどうしてあの部屋に目を付けたのか?
 アキオか?アキオが空き巣犯に協力したんではないか?そう言えば昨日500万円を消費者金融から借りたのを知った時反応が無かった。あれだけお金を貸すのを反対してたのに。不自然に夜中にコインランドリーに行く準備したり、今朝の電話も怪しかった。
アキオか?秋生かぁ。ハルヨは後悔した。男を選ぶ基準は地味かどうかなんかじゃない。名前に春が入っているかどうかで選ぶべきだった。佐野ハルヒコ。あの男が理想の男だったか。
「救井さん、そんなダジャレみたいな理由で拒否しないで助けて下さいよ。」
「決まりですので。」
「酷いじゃないですか?救井さんは血も涙も無いんですか?」
「‥書棚さん、何か勘違いされていますね?私は血も涙も無いんです。初めに説明しましたよね?親会社はAIとアンドロイドを開発しているって。私はアンドロイドです。」
確かに笑顔は張り付いてるし、話し出す前に考え込むようなことはあったけれど、ロボットだからだったってこと?
「あなた、ロボットなんだったら教えなさいよ!私が500万円工面する方法を。」
「書棚春代さん、あなた自身を売り飛ばすと言うのはいかがでしょうか?売春です。」
 

 


5/28/2024, 2:31:22 PM


5/28 雨は全てを狂わせる
俺には計画があった。女の子に告白するも撃沈した俺は、心の傷を癒すため、人生初の風俗に行く事を決意。そうガールズバーに。そしてその決行日を近々訪れる我が生誕祭に狙いを定めていた。この日のために美容院で髪を整え、服も新調した。ちょっとでも格好良く見えるように。お店も‥それとなく決めました。
 しかし雨予報だと。雨どころか雷マークついてるじゃん。
新品の服を着ることは諦めたが、たかが雨。ここで雨に負けたとなれば、今年一年負けのイメージがついてしまう。退く事は許されないのだ。ガールズバーのオープンまでは時間があるのでジムに行ってトレーニング。ひ弱な男じゃ女も抱けねぇぜ。ジム帰り、いよいよ雲行きが怪しくなって来た。そして突然の雨。ああ雨は我慢できる。だが風とのコンビネーションは俺の心をへし折った。傘をさしててもガンガン濡れるじゃん。すごすごと帰宅。今日のメインイベントはコンビニで買ったミルクレープを食べながらとなりのトトロを見るという、その程度のハイライト。いやトトロは凄いよ。また新たな発見あったよ。でも今日は脳汁出る程の体験がしたかったなぁ。何故なら誕生日だから。でも誕生日じゃなかったら?これぐらいの年になると誕生日シフトの魔法は造作もなく使える。「誕生日シフト」と唱えれば、誕生日はあっという間に後日に繰越せる。さぁ、みなさん叫びましょう。誕生日シフト!

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