怪々夢

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コーポ工房

 第一話 コーポエリーゼ

 コーポ工房。略してコポコボ。言いずらい。私の経営するアパートであった。経営と言ってもマンション経営で財を成した父親に、20歳の誕生日プレゼントで貰ったものだ。だからアパート経営のノウハウなど無い。諸々の事は管理会社に任せてしまっているから契約の時ですら住人とは顔を合わせない。ただ、入居者が増えると小遣いが増えて、入居者が減ると小遣いが減る。最近は小遣いは減る一方だ。
 愛知県名古屋市矢場町、コポコボはこの街でリーズナルな価格で安住を提供している。学生やおとこやもめの中年などの住人が多い。管理会社からリフォームの話を持ちかけられたが保留している。リフォームの参考にするため、色々な物件を物色していた所、矢場から2駅先の大須にコーポエリーゼと言うアパートがあって、何でもすこぶる評判が良いらしい。私は何としてもその評判の秘訣を知りたいと思った。
 大須駅で降りて不動産屋に入る。コーポエリーゼは大須駅から徒歩10分、1DKで月45,000円の物件だ。私は同じ条件を不動産屋に提示することにした。不動産屋が出してきた3つの物件の内、2番目の物件がコーポエリーゼだった。ちょうど空きが出たらしい。私は思惑が上手くいってほくそ笑んだ。不動産の説明を適当に聞き流し、早速内見に行くことになった。
 1番目の物件は築25年だがリフォームされて新築の様だった。
『やっぱりコポコボもリフォームした方がいいのかなぁ。』
私はリフォーム代は幾らぐらいかかったのか?とか、リフォームした後の入居者の評判は?とかを聞いて不動産屋を困らせた。ベランダの日当たりとか、寝室の収納などをチェックした後、浴室に向かった。今までがらんどうの部屋ばかり見てきたが、脱衣所には洗濯機が置いてあった。しかも最新式だ。
「この洗濯機は何ですか?」
「ああ、これは備え付けの洗濯機です。洗濯機って寸法を考えたり、性能考えたり、買う時悩みますよね?こちらの物件は洗濯機が付いておりますので、そんな悩みは必要ないんですよぉ」
不動産屋は得意げに語尾なんか伸ばして説明してきたが、私はジャブを2,3発貰った様な気分だった。備え付けの洗濯機が当たり前にある、もうそんな時代なのか。

 お目当てのコーポエリーゼに着いた。コーポエリーゼは、巨大だった。田舎の小さな小学校くらいの大きさがある。そして外装は田舎の小さな小学校の様に地味だ。少し緊張しながら案内されたのは105号室だった。室内は地味と言うよりは古めかしいと言った感じだった。和室の襖にあしらわれた花柄は色褪せ、押入れの柱は木目がやけにはっきりしていて、じっと見つめていると人の顔に見えてきて気持ち悪かった。うーむ、何の変哲もない。これではコーポ工房の方が住み良いくらいだ。そうなると人気の秘密がますます分からない。住んでみないと分からないと言うことなのか?
「ここいいですね。ここにしようかなぁ」
本心では契約することを決めているのだが、怪しまれない様にさり気なく言ったつもりだ。
「お客様、ここ気に入りましたか?小説とか書かれている感じですか?」
「えっ、書いてないですけど」
「じゃあ、イラストとか、絵画とかやられているとか?」
「ないですけど」
「こまったなぁ、楽器とか嗜まれているとか、そういうのないですかねぇ?」
「ないですけど、何か問題があるんですか?」
貸し手が貸すのを渋るってどう言うこと?俺の声は尖っていた。
「いやぁ、コーポエリーゼなんですがね、アーティスティックアパートと言いますか、トキワ荘見たいなもんですね。住人は必ず芸術活動しているんですよ」
「えっ?それが条件ですか?」
「条件と言いますか、暗黙の了解と言いますか」
「俳優です。役者をやっています」
「ほう、それは素晴らしい」
嘘を付いてしまいました。学生の頃に演劇サークルに居ただけです。それも端役ばかりの。
「ぜひ何か見せて頂けませんか?」
その顔から信用していないのが手に取る様に分かる。不動産屋よ、正解だ。
「じゃあ、ちょっと、早口言葉を」
舌で唇を湿らしてからメジャーな早口言葉を繰り出した。
「生ムニ、生モネ、生ナナポ」いかん、全部噛んでしまった。
「うーん、もう一つ何か、朗読かなんかできませんか?」
朗読か、暗唱できる詩なんかあったかな?私は咄嗟に思いついた詩を朗読した。
「男には自分の世界がある。例えるなら、空をかける、一筋の流れ星」
「おお、ルパン3世のテーマですか?いいですね」
不動産屋は納得してくれた様だ。

 コーポエリーゼを後にし、一応3番目の物件も見たのち、不動産屋に戻った。
「それでは7月1日からコーポエリーゼの105号室にご入居と言うことでよろしいですかね?」
不動産屋との諸々の手続きを済ませ。俺は帰宅した。コーポエリーゼに住んで、その人気の秘訣を探る。まるでスパイや探偵ではないか。演劇サークル仕込みの演技力が試されるな。まるでホームズやボンドになった気分で悦に入っていた。
 
 7月1日。午前中に引越し業者に荷物を運んでもらうと、近くのファミレスで食事を済ませ、午後にエリーゼに向かった。
「人気のコーポエリーゼ、その秘密を暴き、欠点を浮き彫りにし、その評判を地に落としてやる。俺の毒牙にかかったものは生きては帰れぬのだ。ハッハッハ」
などと妄想していると後ろから声を掛けられた。
振り返ると銀髪のショートカットの女がいた。肩にはオレンジのマスコットを乗せている。イタイ格好だ。
「新しく越してきた方?」
「はい、怪々夢といいます。よろしくお願いします」
「何やってる人?」
「アパート経‥俳優です。」危うくアパート経営と言いそうになってた。
「アパート系俳優?」
「ああ、売れない役者のことをアパート系俳優と言って、売れてる役者のことをマンション系俳優って言うんですよ。役者業界の隠語ですね」
すぐにバレそうな嘘をついて、目が泳ぎそうになるのを必死に耐えた。
「へぇ、知らなかった、さすが役者さんだ。じゃあ、今度1人芝居用の脚本書いてくるから、演じてくれない?」
「1人芝居ですか?」
「できないの?」
「できます」
「さすが役者さんだ」
その一言を聞くと納得したのか女は足早に去っていった。

コーポエリーゼ、恐ろしい所だ。どうしよう、初日にしてすでに逃げ出したい。


 第二話 コーポ工房101号室

 久しぶりにコーポ工房に帰ってきていた。やっぱり落ち着く。私はオーナーをやりながらコポコボの101号室にも暮らしているのだが、住人はその事に気付いていない。アパート経営に関しては管理会社に一任しているからだ。今日は友人の富良野マンロウを部屋に呼んで、芝居の稽古を付けて貰うことにしたのだ。富良野は大学時代の演劇部の部長で、卒業後は小劇団を主催している。大学時代から社交的な富良野と人見りな私は仲が良く、進む道が別れた今でもその関係は途切れることはなかった。
「と言う訳でさ、一人芝居をやらなきゃいけないんだよ。参っちゃうよ」
「何でそんな事しなくちゃいけないんだ?」
富良野は冷静な物言いだった。
「何でって、いかれた住人に言われたからだよ」
「だから、いかれた住人に言われたくらいで、何で一人芝居をやるんだよ?」
「入居テストかもしれないじゃないか」
富良野は首から頭をだらんと下げ、大きなため息をついた。そしていかにも呆れた表情を作って、いつもの芯を食った指摘をしてくる。
「そもそもコーポエリーゼに住む必要があるのか?お前の仕事はコポコボを住み心地のいいアパートにすることだろ?
だったらまずはコポコボを見つめ直すべきなんじゃないか?」
 ぐうの音も出ないとはこのことだ。頭をトンカチでぶん殴られた気分だった。トンカチは頭を殴った後、そのままクルクルと落下して足の小指にもぶつかった。
「確かにお前の言う通りだな。コーポエリーゼからは足を洗うよ」
「それはダメだ」
富良野はきっぱりと言った。
「え?どう言うこと?」
富良野の真意を理解出来ず聞き返した。富良野は熱く、だけど静かに話始めた。
「途中で物事を投げ出してしまうのがお前の悪いクセだ。もう直ぐ30歳だろ?そろそろ人生の歯車の回し方を変えてみないか?とりあえずやってみろ。俺はお前の1人芝居を見てみたいんだ」
「なんだよ、俺の下手くそな演技を見て笑いたいのか?」
私は苦手笑いを浮かべて、視線を富良野から窓の外に向けた。私は大学4年時に自分の下手さに嫌気が差して演劇サークルを抜けた過去がある。以来、演劇を続けている富良野や、昔のサークル仲間に会うと劣等感を感じてしまう。私はかつて演劇サークルに所属していたことを秘密にしている。私に演技を語る資格などないからだ。ドラマなどで演技力を批判されている俳優さんを見ると悲しくなる。人前で堂々と演技をしている。それだけで素晴らしいではないか。それだけで俳優ではないか。
「なぁ、怪々夢」富良野の声のトーンは優しい物に変化していた。「俺はお前の演技を下手だなんて思ったことはないよ。だけど芝居には共演者がいて、脚本があって、演出家がいる。お前は頑固過ぎるよ。それで協調性が無くて自滅して行ったんだ」
富良野はいつも痛いところを突く。あまりにも正しい事を言うので反発したこともあった。でも今は、富良野の言葉は俺の心の奥深くにまで染み込んでくる。富良野はこんな提案をしてきた。
「怪々夢が良かったら、俺の知り合いの演出家がやっているワークショップに参加してみないか?初心者向けのワークショップだけど、その方が今のお前には感じる物があるんじゃないか?」
私は何も言わずに頷いた。
 この日の稽古は夜通し続いた。大学生に戻った気がした。

 翌日、富良野を見送った後、コポコボに何か不具合がないか、一つ一つチェックしてみた。すると駐輪場の波板がひび割れて割れそうな箇所がある事を発見した。
『先日降った雹のせいだな。あの雹凄かったもんなぁ。』
私はホームセンターで波板を買ってくると、交換を始めた。私は趣味でDIYをやっているのでこう言うのは得意だ。私が住んでいるコーポ工房101号室は1LDKの特別仕様だ。私はそのリビング部分をDIYで自分なりにカスタマイズしている。収納を増やしたり、壁に花瓶を置くための棚を作ったりしている。採算繰り返すが私はオーナーなので現状復帰など気にする必要ないのだ。
 私が電動ドリルを使って波板を取り付けているとコポコボの住人の方が話しかけてきた。203号室の高橋さんだったかな?あまり化粧っ気のない、素朴な女の子だった。
「何をされているんですか?」
「波板が割れていたので交換しているんですよ」
「それは管理会社に任せた方がよろしいのでは?」
「ああ、そうですね。後で管理会社に伝えておきますよ」
高橋さんは学生の時に越してきて、就職しても住み続けてくれている。今日は平日だけど会社は休みかな?就職してからはスーツ姿しか見かけなかったから、久しぶりに私服を見た。ワンピースの裾をヒラヒラさせながら2階への階段を登って行く。
「ふぅー。こんなもんかな」
自分の仕事に満足した。住人は感謝してくれるだろうか?住人の満足度が知りたくなった。ツィッターみたいにコメントが欲しいな。そこで目安箱を設置する事にしてみた。ついでにリフォームして欲しい所は何かと言うアンケートも取る。使われていないポストを目安箱にし、アンケート用紙とペンも用意した。私は自身へのポイントを上げるためゴミ捨て場の清掃も行うことにした。金曜日は生ゴミの日じゃないのに出してる住人がいる。私はゴミ捨て場の扉に注意書きを貼ると、デッキブラシ片手に掃除を始めた。ツンとくる汚臭を鼻腔に入れてしまい、胃液が刺激され、えずきが逆流してくる。そしてまたしても住人に話しかけられた。田中さんだったかな?田中さんは40代男性で東京に奥さんと子供を残して大須に越して来たのだそうだ。
「お掃除されているんですか?」
「そうですね、ちょっと汚れていたので」
「でも住人の方ですよね?」
そうなのだ。私は住人名簿を見ているから田中さんのことを知っているが、こうして話すのは初めてなのだ。
「ええ、直ぐそこの部屋に住んでる者です。管理会社の人間ではないのですが、掃除が好きなので」
「お好きなんですね?」
「はい」
「コーポ工房が」
「え?」
田中さんはドラマのセリフみたいなことを言って立ち去って行った。
 しばらくデッキブラシをゴシゴシやっていたが染み付いた匂いは取れない。が、まぁ、十分綺麗になったのではないか?明日は土曜日、富良野が紹介したワークショップがある日だ。私は演劇を嗜んだことはあるが基本的に人前が苦手だ。足が震える。今夜は一杯やってから寝よう。シャワーを浴びてから買い出しに向かった。

 「では、みなさん、輪になって牛タンゲームを始めましょう」
土曜日になり、私はワークショップに参加していた。お互いの挨拶を済ませると協調性を高めるための牛タンゲームが行われた。このワークショップは公民館で行われるカルチャースクールの一つして開催されている。参加者には、定年で仕事を辞め、第二の人生に演劇の世界を選んだ元会社役員とか、高校の演劇部に所属しながらオーディションに繋げるためにワークショップに通っている本格派など、老若男女、色々なバックグラウンドを持った10名程の人間が集まっていた。
 「今からやって貰うのは、体の部位を使って感情表現を行うことです。例えば、悲しみ、腕、と言ったら、腕を使って悲しみを表現して下さい。私が頭、喜び、と言ったら頭を使って喜びを表現して下さい。みなさん理解出来ましたか?」
演劇講師は流石の滑舌でハキハキと説明した。実は私はこの手の練習が嫌いだ。格好悪いからだ。私は役者は格好良くなければならないと思っていた。何故なら私が好きな役者は一様に格好いいからだ。こう言う練習を続けているとダサさが染み付きそうで嫌なのだ。イヤ、嫌だったのだ。私は現在役者でもなんでもないし、社会に出たからには嫌なことも受け入れなければならないと言うことも知っている。私は講師が肩で怒りを表現して下さい。と言い終わる前から全力で怒りを表現した。全力だけど静かな怒りだ。富良野、これでいいんだよな?
 ワークショップは終了の時刻を迎え、仲良くなった元会社役員と高校で演劇部の部長をやっている女の子とLINEを交換した。講師の方には…嫌われたかもしれない。
 アドレナリンが出たまま帰宅すると目安箱に早速投函された形跡があった。どんな事が書いてあるのか、緊張とワクワクが交互に押し寄せる。それはこんな書き出しから始まっていた。
『大家さん、こんにちは。リフォーム案を募集中との事ですが私は現在のコーポ工房に満足しております。どうしてもリフォームが必要なのでしたら受け入れますが、無理してお金をかけてなくてもコーポ工房の魅力は伝わると思います。ただ一つお願いがあるとしたら住人のフリをするのをやめて頂けませんか?こちらも気付かないフリをするのが大変なので』


 第三話 屋上のパパオ

 決戦だ。コーポエリーゼのお高くとまった住人達は私の演技力を軽く見ているだろう。だから1人芝居をやってみろなどと言う舐めた発言ができるのだ。どんな難しい役柄でもやり切ってやるさ。かかってこい。口が聞けないコメディアンの役か?それとも二重人格の政治家の話か?キリスト最後の瞬間でもいい。私はプレッシャーから妄想を繰り返し、重圧で押し潰されそうになっていた。
 日曜日の午前10時。天気は快晴。心地いい日差しに誘われて住人達も出てくるだろう。私は震える足を必死で抑え、郵便受けの前で住人を待つ事にした。
 ドアノブを回す音が聞こえて身構える。そこにグレーのニットを着た半眼の男が現れた。片目を瞑るその様子は中二病患者か柳生十兵衛か。
「こんにちは」
「こんにちは」
初対面の私に笑顔で挨拶を返す。中々の好青年だ。私は早速勝負に出た。
「1人芝居のことなのですが」
「は?」
「ごめんなさい。何でもないです」
気味悪がらせてしまった。1人芝居は共通の入居テストでは無かったのだ。となると、いつどこで芝居をする事になるのか?それともあの女の世迷言か?時刻は11時。後1時間もすれば腹を空かした猛獣共が巣穴から這い出てくる頃だ。私はボディバックからミニあんぱんを取り出して、4つある内の1つを食べた。
 ミニあんぱんを全部食べてしまった頃、金属製の階段を駆け降りる音で私は振り返った。出た。オレンジのマスコットを肩に乗せた女だ。私は冷静な顔へと表情を作り直して声を掛けた。
「こんにちは」
「…こんにちは」
女は小声でぼそぼそと返事をした。そしてそのまま通り過ぎようとするので、私は慌てた。
「あの、1人芝居は?」
「は?」
忘れているだと?お前から誘ったのに?女は、初めて聞く韓流アイドルの舌を噛みそうなメンバーの名前を言われた時みたいに、『知らねぇよ。』と言う顔をしている。
 大騒ぎした割にはつまらないオチだ。何のことはない、私だけが舞い上がっていた訳だ。
 気落ちして俯いている私の視界からは、女の姿は消えて行った。いかにも芸術家気取りの女にありがちな着物にスニーカーを合わせていた。そのスニーカーに蹴っ飛ばされてオレンジのぬいぐるみが転がってきた。どうやら肩から落ちてしまったようだ。私はそれを拾い上げる。オレンジには目と口がついていた。
「オレンジ君落ちましたよ」
女を呼び止めるために少し声を張った。戻ってきた女は礼も言わずにそれを受け取ると、「トマト」と強く言った。私が何のことか分からず黙っていると、
「この子はトマトなの」と女は言い直した。
『知らねぇよ』と言ってやりたかったが、私はワークショップ仕込みの表現力で胸を使って『知らねぇよ』の動きをした。

 さてやる事がなくなってしまった。気分転換が必要だった。ここがコーポ工房ならDIYをしたり掃除をするのだが。ふとゴミ捨て場を見ると、扉の前にタバコの吸い殻が捨ててあった。
『どこのアパートでもゴミ捨てのマナーを守れない人間がいるんだな』
私は吸い殻を拾い上げた。とその時、背後を猫が通り過ぎた気がした。しかしそれは猫では無かった。宮崎パヤオだった。ハンプティダンプティの様に1頭身の体に、小さな手足でトコトコ歩いている。全長30cmくらいの生き物。だが顔はパヤオだった。
 パヤオはタバコをふかしながら、吸い殻をポイ捨てしていく。私はそれを拾いながら後を追った。
 パヤオは104号室と105号室の間にある階段を登って行った。105号室に住み始めて間もないが、絶対にこんな所に階段は無かった。階段はどこまでも続いている。コーポエリーゼが大きめのアパートとは言え、登っても登っても階段が続いて行くのは異常だった。ようやく屋上に出た時、そこには緑の森が広がっていた。突如として私を取り巻く世界が変貌を遂げた。驚いた事に私の体までもが小学生の頃の姿にかわっている。
「来たか」
そのパヤオに似た生き物は少し甲高い、だけど迫力のある声で言った。
「きみは何をやっている?」
「僕は俳優です」
「珍しいな、ここに来る人間は大概物書きなんだが」
「小説の類いを書いた事は無いです」
「書いてみろ、ここに来れると言う事は才能があると言うことだ」
「やってみます。すみません、この場所は何なのですか?」
パヤオに似た生き物は、(私はパパオと呼ぶ事にした)タバコの煙を大きく吐き出した。そして吸い殻入れにタバコをしまった。吸い殻入れ、持っていたのか。
「ここは私の創造力が産んだ想像の世界だ。あれを見てみろ」
パパオは森の脇にある建物を指差した。
「あれは神々が湯浴みをするための温泉宿だ」
「知っています。あの作品の宿ですよね。この森もあの作品の森だ」
「この世界は私が作り出したものだが、私はこの世界から着想を得ている」
「卵が先か?鶏が先か?」
「そう、卵が先か、鶏が先かだ」
私は円を描きながら踊り始めた。
「オリジナルだけど、オリジナルじゃなかった」
パパオも後ろから続いてくる。
「オリジナルだけど、オリジナルじゃなかった」
凄い、凄い世界だ。この僕にも想像力がみなぎってくる。1人芝居の脚本を書けるような気になってきた。
「君、今、作品のネタを思い付いたろ?」
「どうして分かるんですか?」
パパオの視線の先にひょろりと痩せた男の姿がある。あれは、僕だ。
「この世界は私が作り出したものだが、皆の想像力の結晶でもある。あの男は君の想像の産物だ」
「どうしてこんな事が?」
パパオはトコトコと歩き出すと、突然こちらに振り返った。その目は僕を捉えてはいるが、その目の中に僕の姿はなく、パパオの頭の中に無限に広がる不思議な世界。その世界に想いを馳せているようだ。
「君、ファンタジー小説は読むかい?」
「読みません」
「あれは凄いよ。何の説明も無しに魔法や魔物が出てくる。普通なら何ページも使って説明しなきゃいけない筈だよ。ファンタジーの概念が世界中に共有できていないと出来ない芸当だ。私はね、同じ事をこの日本で出来ないかと思っているんだ。私の世界観を皆が共有し、そこから作品が生まれ、そして皆のアイディアによって世界が拡張していく。」
「つまりあなたが作りたいものは作品ではなく概念だと?」
「その通りだ」
僕はため息を付いた。壮大な計画だ。だけど成功のカギはこの世界に触れた者。いわばパヤオチルドレン達が成功を納めるかどうかに掛かっているように思う。
「さぁ、若者よ、自分の世界に帰る時間だ。私の力が必要になれば、吸い殻を辿ればいい。また私に会える筈だ」
 
 気が付くとコーポエリーゼの屋上に私はいた。いつの間にか小学生姿から28歳の自分に戻っていた。
「お帰り」
その声は富良野だった。そしてコーポエリーゼの住人が集まっていた。住人達は口々に「おめでとう」と私を祝福する。
「富良野どうして?」
「言ってなかったな。俺は学生時代コーポエリーゼに住んでいたんだ。顔馴染みの住人もいる」 
そう言う事か、富良野の奴、はめやがったな。
 私を見つめるコーポエリーゼの住人達。その期待に応えねばなるまい。
「105号室。怪々夢濁美。1人芝居。タイトルは…」
私は声の限りに叫んだ。
『THE FIRST ZOMBIE』







 
 

7/1/2024, 2:09:46 AM