枝豆

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12/29/2024, 3:15:58 PM

「こ、これは……」

 ゴクリ、と生唾を飲み込む。一目見た瞬間に理解した。それは甘く、仄かな酸味を感じさせ、そして細やかな粒立ちと滴る果汁が渋皮の苦みという輪郭の中で弾ける、至高の果実――。

「みかん「オレンジ」――ん?」
「あ゛?」

 ――その一言で理解した。コイツは、敵だ。

「てめェ……。今、“みかん”のことを何て言いやがった」
「貴様、この“オレンジ”を、まさか惰弱な“みかん”などと一緒にするというのではあるまいな」

 噛み締めた歯が軋む。あろうことかこのヨーロッパかぶれの金髪クソ留学生、みかんのことをオレンジなどという低俗かつクソ酸っぱいエセ果物と一緒にしやがったのか。純日本男児である俺は義憤と共に“敵”を睨みつけ、口を開く。

「“みかん”は、単体で完結した完全食だ。料理の添え物なんかじゃねぇ、ただそれのみで完成された、究極のフルーツなんだよッ!!」
「ハッ、オレンジが添え物だと!?無知は本当に愚か!普通に単体で食えるしカットの仕方で小洒落た感じにもなる!何より貴様が飲んでるそのジュース、“みかんジュース”とは言わんだろうが!!」
「言うよ!全然言うよ“みかんジュース”!!より甘みが強く引き立つ最強の飲み物だろうが“みかんジュース”は!!てめぇこそ無知を晒しやがってッ、今日こそ引導を渡してやるッ!!」

 留学生野郎がハッと鼻を鳴らし、その長い髪をバサリとやった。美人がやるとそれだけで場が華やぐ。ハーフだというその女は、漫画で学んだ謎の語彙により妙に芝居掛かった日本語を話す。だがそれが似合ってしまうツラの良さがあるのが、どうにも気に食わない。

 ちくしょう、バカにしやがって。この水と油の如く全く噛み合わないこんなやり取りをかれこれ半年も続けているが、毎度毎度わざわざ俺の発言に被せるように言ってきやがって。今日という今日はさすがに許せん!

 何がオレンジだこの野郎!普通に“みかん(国産)遺伝子組み換えでない”って書いてるじゃねぇか!!

「ハッ、その意気だ!さぁ来いッ!私はそう簡単には敗れんぞ!!」
「そのクソ生意気なニヤケ面もここまでだてめぇクソこの野郎ッ!死ねぇ!!」

 俺はかつてない戦意と共にド畜生に挑みかかり、ワンパンで沈んだ。哀れ……。

「ただイチャついてるだけじゃねぇか。死ね」

 そして通りすがりのインド人が舌打ちをする、そんな国際スクールの一幕。ちなみにみかんもオレンジも、原種はインドのものだったという。どうでもいい。

12/24/2024, 12:19:06 PM

「――ああ、今年もクリスマスか」

 街を彩る電飾を見て、そんなことを思う。

 よくある話だ。日々忙しなく生きている社会人は、休みも碌に取れやしない。毎日毎日電話を捌き、頭を下げ、あちこちへ奔走する。その割には給与に反映されないし、どんどん手取りは減っていく。趣味の時間を最後に持てたのはいつだったか……そんなことを考えて、結局、何を趣味にしていたのかもすぐには思い出せない。そんな、虚しいがどこにでもいるしようのない人間が、俺だった。

 草臥れたコートが足元から吹く温風で揺れ、窓からの隙間風が首元を冷やす。少しばかり普段より疎な車内は座るのが容易で、僅かばかり得をした気分になる。

 溜息を吐いた。少しばかり、普段より重かっただろうか。

「もう、そんな季節なのか」

 いつも通りの道をいつも通りに歩き、ちょっと凍った路面で滑りつつも、コンビニで晩飯を買って帰宅した。メニューはこれもまた普段通り、マカロニ入りのポテトサラダと唐揚げのついたレンチン弁当。ケーキは23時にもなると売り切れていて、スイートポテトくらいしか残っていなかったので諦めた。結局、クリスマスイブだからといって変わり映えのしない一日になった。

 温めますか、と聞かれなかったので、家のレンジで5分待つ。テレビはあるのだが、つけるのが面倒でやめた。スマホのSNSをスクロールしつつ読んで、ポテトサラダをつまむ。ああ、クリスマスの話題ばかりだなぁと当たり前の感想を抱いて、チンの音で我に返りいそいそと台所へ。熱い熱いと言いながら100円引きの唐揚げを頬張り、まぁ、冷凍よりは多少うまいかなと、そんなふうに思いながら食事を終えた。

「……いいのかよ。これで」

 いつからだろう、生きるのが苦しいと思わなくなったのは。

 社会に出て暫くの間は、それはもう苦しかったと思う。忙しくて、目まぐるしくて、辛くて、泣きそうで……。最近はそうじゃなかった。慣れたのかなと、へらへら笑いながら冗談を交わすくらいには普通の人間でいられていると思っていた。

 ただ、慣れたのは一長一短でもあり。何も楽しくなくなったのは、少し寂しいと思っている。昔はもっと世界が鮮明で、クリスマスなんていう日には、もっと、もっと何かこう、期待とか、喜びとか、あったと思う。

「けどま、何か自分で買ってもな」

 もう長いこと、何も心の底から楽しめたことがない。いや、あった。楽しかったんだ、その時は。すぐ褪せて、消えていくだけで。漫画を読めば楽しいし、興奮するし、外に出掛ければ喜びもする。けど、まぁ、なんだ。すぐに、何とも思わなくなる。

 だから、いいかなと。趣味も捨てた。別に何か、やりたいことがあるわけでもない。漠然とした不安はあって行動に移せないだけで、今がいいかというと、そんなこともない。ストレスもまぁ耐えられるし、現状に不満こそあれど、今の環境から逃れた所で行けるところはたかが知れているし、まぁ、いいか、と。

 まぁ、いいか。そればかりだ。

 ――そんな自分を変えたいとも、思っている。

「よし!」

 コンビニへ走る。封筒はこれでいいか?用紙はこれでいいかな?他に何かいるっけか、あ、そうだ。ついでだしこのカードゲームのパックを箱買いしてみよう。

 少しばかり口元が上がる。ああ、わかってる。こんなものは一過性で、すぐどうでも良くなる。きっと脳みそがもう若くない。楽しい事は楽しいけど、すぐ褪せて、灰色の、どうでもいい世界に生きていることをきっと思い出すんだろう。

 会計してすぐに文字を書き始めた。そして、そのままポストに封筒を入れた。衝動のまま、後のことなんか何も考えていない。別に貯金もそれほど多いわけじゃない。だけど、まぁ。

「まぁ、いいか」

 俺の頭の中にはもう、ルールも碌に知らないカードゲームの中身のことしかなかった。中には何が入っているんだろう。もしかしたらレアカードが入っていて、キラキラ光る豪華なデザインが部屋の棚に陳列することになるかもしれない。

 少し浮ついた頭で黒い空を見上げる。どこかの窓から漏れた光が注ぐ冷気を照らして、味気ない夜をその場限りの白で賑やかす。吐いた息が白くモヤを散らして、少しばかりの高揚感を冷たい空気が象ってゆく。

「――ああ、クリスマスだな」

 退職届、いつ届くかな、と。そんな馬鹿なことを考えて、レジ袋を指に引っ掛け一回転。ちょっとだけ口元が緩んで、積もった雪をブーツで踏みしめた。