【夢と現実】
毎日、幸せだ。仕事は順調だし、家に帰れば愛する妻と娘が居る。休みの日は友人とキャンプに出かけることもあるし、家族と旅行に行くことも割とある。
給料だって充分貰っている。同世代の人が貰っている額と比べたら多い方だろう。
体も健康そのものだ。まだ三十代、歳を取って体のあちこちが痛いということもない。俺の両親も妻の両親も健在、今のところ大きな病気もしていない。
本当に、幸せそのものだ。
けれど俺はあの日からずっと、毎日同じ夢を見ている。
「殺さないで!」
暗闇の中で悲痛な声が耳を貫く。金切り声に似たそれは、足元で倒れている男が発したものだ。
このあと、夢の中の俺がこの男に何をするかを俺は知っている。だけど、それを止める術は知らない。
夢の中の俺が振り下ろした大きな石が、鈍い音を立てて男の命を奪う。辺りはしんと静まり返り、俺はその場に立ち尽くしている。
「当然の報いだ」
呟かれた声は自分のものとは思えないほど暗く冷たい。それが恐ろしくて、いつも飛び起きるのだ。多量の汗をかき、心臓が激しく脈打ち、荒くなった呼吸を整えるのにも時間がかかる。
今、現実の俺はこんなにも幸せなのに。昔の出来事が夢となって今の俺を苦しめる。
今だったら、あんなことは絶対にしないだろう。あの頃はまだ高校生だったし、何もかもうまくいかない時に揶揄われたから、ついカッとなって……。
いくら悔やんでも、夢を見続ける。捕まって罪を償うこともなかった俺への罰なんだろうか。
でも、だからってあの男に俺の幸せを邪魔する権利は無いはずだ。十年以上もしつこく夢に出てくるなんて、いい加減にしてほしい。ふざけるなよ。
そう思ったところで、スマホが鳴った。
「――奥様と娘さんが亡くなりました」
「……え?」
交通事故。一瞬にして妻と娘を失ったことを信じられるわけもなく、俺は愕然とする。
そして、俺はあとから知ることになるのだ。妻と娘をわざと轢き殺した犯人が、男の父親だったことを。
裁判の時、男の父親は俺を見て、笑いながら言った。
「当然の報いだ」
――頼むから、夢であってくれ。もう無数に願っているけれど、これは確かに、現実なのだ。
【さよならは言わないで】
あたしのことなんてさっさと忘れてよ
あんたには新しい人がすぐ見つかるからさ
あたし? あたしはもういいの
一人で生きていくって決めたから
あたしみたいな余命が短い奴と、誰が喜んで付き合うのよ
でもさ、寂しくなるから
さよならだけは言わないでくれる?
さらっと明るく別れようよ
あー、あんたはそんなこと出来ないか
あり得ないくらい真面目だもんな
ある程度は分かってたけどさあ……
まあ、いつもお互いの家に帰る時みたいに
バイバイ、で別れよう
さよならは言わないで
もし、何年か経ったあとも
あんたがあたしのことを変わらず好きだったら
さよならは、本当のさよならの時に
あんたが言ってよ
あたしに会いに来た時に……ね
だけどさ、あたしは何も返事できないわけじゃん
そういうの、悲しすぎない?
だから、あたしのことはすぐに忘れた方がいいってこと
あたしとあんたのさよならは、ここで永遠に封印しよ
それじゃあね、バイバイ
【光と闇の狭間で】
美しい世界が大好きだった
まるで光が降るかのような輝いている街
静かな朝の澄んだ空気
開けた窓から差し込む陽光
この世は光に満ち溢れていると思っていた
けれど街は一瞬にして破壊され
朝から飛び回る戦闘機の音が不安を煽る
闇の中に一日中いるような苦しさが
自分や人々を支配した
あれから時が経ち
街は少しずつ以前の姿を取り戻している
人々の笑顔も戻りつつあった
だけど
二度と元に戻らないものもあった
生涯消えない悲しみもある
それでも生きる限り
人は前を向かければならない
そんな残酷な運命(さだめ)を抱えながら
光と闇の狭間で、生きていく
【距離】
「これ、ありがとな」
朝、学校に着くと、昨日隣の席の相川君に貸したノートが返ってきた。
「すっげえ助かった! 今回のテストは、伊藤のお陰でいい点取れそうだわ」
「そう? それなら良かった」
調子がいいこと言ってるだけかも知れないけど、何だか嬉しい。
「伊藤って結構、字綺麗なんだな」
「なに? もっと汚い字を書いてそうに見えた?」
「思ってねーよ。むしろ伊藤らしかったっつーか……あ、いや、今のは忘れて」
「ふふっ、何それ」
照れたように頭を掻いている相川君が面白い。私は思わず吹き出した。
「あー……あのさ。今後も、テスト前にノート貸してくれたら嬉しい。席替えしてからも」
「えー。ノートの予約?」
「そう! 伊藤が他の誰かにノート貸す前に、予約」
「しょうがないなあ……それなら、相川君にだけ貸すね」
「マジで!? よっしゃ!」
素直に喜びを表す相川君が可愛く見えて、その笑顔に胸がきゅんとした。
相川君と私の席の距離は、いつも通り。だけど心の距離は少しだけ近づいた気がしたんだ。
【泣かないで】
「大丈夫だから」
優しく言いながら頭を撫でてくるのが切なくて、余計に雫が溢れ出す。
「また会えるよ」
「そんな言葉、信じられるかよ!」
情けない泣き顔のまま叫ぶと、目の前の顔が哀しそうに歪んだ。
「信じてよ」
「……」
「また必ず会えるから。だから、泣かないで」
一度頬を撫でられて、手が離れるとその体温はすうっと消えて。
「またね」
「……ああ」
この温もりが戻ってくることなど二度とないと分かっているのに。俺は涙を拭って、あの人の最後の言葉を信じようと思ってしまった。