『今一番欲しいもの』
演劇部の活動は、いつも二年六組の教室で放課後だけ行われる。
ストレッチ、発声、滑舌などの基礎練習をしている間中、私はずっと落ち着かない気持ちを胸の底に抱えていた。隣で同じように基礎練習をしている同期、夏井優奈の様子を無意識のうちに気にしている。
高校二年目の夏休み前日。今日は私たちにとって運命の日とも言える、大切な日だった。秋の学園祭で行われる舞台発表での配役が決定するのだ。
私と優奈は同じ役を希望していた。幽霊の少女と放課後の教室で逢瀬を重ねる、男子高校生の役だ。元から髪をショートにしている私に対し、優奈は一年の頃からずっと長い髪をしていた。だから、優奈が男役に立候補するとは夢にも思わなかった。オーディションの日に髪をばっさりと短くしてきた優奈を見た時、彼女の本気と気迫を感じ取ったけれど、私はまだまだ余裕だった。
中学生の時も演劇部に所属していた私が、高校で演劇を始めた優奈に負けるわけがないと思った。優奈が自然な感情を込めて、すらすらとセリフを暗唱し始めた時も、驚きはしても、負けた気には決してならなかった。
基礎練習が終わり、顧問の松尾先生に皆の視線が集中した。
「三年生を優先して配役を決定しました。一、二年生は納得のいかない結果となるかもしれませんが、修業だと思って今年は我慢してね。それでは発表します」
主人公の役も、幽霊の少女役も、三年生だった。続いて、私と優奈が希望している役の番になる。遂にこの時がきたのだ。私は周囲に聞こえないように、静かに唾を呑み込んで軽く目を閉じた。
「タイガ役、夏井さん」
嘘だ、という思いと、やはり、という思いが頭の中で共存していた。
結局、私は第二希望だった隣のクラスの少女役に選ばれた。
「さやか、残念だったね」
優奈とは別の同期の子が、さりげなく声をかけてくれた。しかし、私の気分は晴れなかった。
役だけではなかったのだ。私が本当に、今一番欲しいものは。
「どうして私が今まで男役ばかりやっていたか、わかる?」
同期の子にぽつりと尋ねる。不思議そうな顔でこちらを見る同期の子の視線を捉えた瞬間、この話題は口にすべきではないと気づいた。私は軽く首を振った。
「何でもない。ショックから来る、ただの独り言」
笑って誤魔化す。同期の子は怪訝な目を私に向けたが、すぐに普段の人好きのしそうな表情に戻った。
言えるわけがない。
女に生まれたくなかった。この肉体の代わりに男の体が欲しい、だなんて。
映画サークルの新歓コンパが終わり、周囲にいたメンバーはそれぞれ帰り支度を始めていた。私は一年後輩の長沢創に軽く目配せして、席を立った。
私たちは半年前から交際している。昨年入部してきた創が告白してきたのは十月のこと。その流れで付き合い始めた。今では、互いのアパートを行き来している。
「ホタル先輩の演技があってこそ、今度の自主制作映画は成り立つと思うんです」
二人並んで帰る途中、決して上手とは言えない私の演技を、今夜も創は褒めてくれた。ホタル先輩、の所に力が入っていて、私の胸は少しだけ痛む。
今、私は創に無言の嘘をついた。
始まった時は小さな嘘だった。けれども、ここまできてしまうと、もう取り返しがつかない。雪の塊が坂道を転がり続けて大きくなっていくように、私がついている嘘も巨大化してしまったような気がするのだ。
心臓の辺りが苦しい。私は立ち止まり、創に声をかけた。
「ねえ、ツクル」
二、三歩先へ歩き出そうとしていた創が足を止め、振り返る。その顔が決まりの悪そうな作り笑いに変わった。
「どうしました? ホタル先輩」
胸の奥が、きゅうっと締めつけられた。私は遂に真実を口にした。
「私、実はホタルじゃないの」
きょとんとしている創に、私は打ち明けた。
「蛍と書いて、ケイ。私の名前は岩村ケイ」
創が、ぎこちない笑顔を見せた。そして少し震えたような声で呟いた。
「そうだったんだ。僕も勘違いしていたんだ」
勘違い。何のことだろう。状況を上手く把握しかねている私に、創は突然、満面の笑みを浮かべて言った。
「僕も、実はツクルじゃありません。創と書いて、アートと読みます。親が凝り性で、変に個性的な名前をつけたんです。迷惑な話ですよね。アートなんて、初対面で正しく認識してくれる人、今まで一人もいませんでした。だから出席を取られるのがいつも嫌だったんですよ。呼ばれるたびに訂正しなきゃならないので」
その時の私は、きっと気の抜けた顔をしていたことだろう。
創は私の表情を隅々まで確認するように凝視すると、優しく微笑んだ。
「ケイ先輩。今後ともよろしくお願いします」