青春。それは、人生で「あのころは良かった」と思う時期ランキングを作れば、かなり上位に君臨するのではないだろうか。若さと大人っぽさが上手い具合に絡まりあってつくられ、あーだこーだ言いながらも笑い合って成長していく。泣いたり笑ったり、蛇行しながらそれぞれ人生行路を歩んでいく。その輝かしき笑顔というのは、自由と苦しみの兆しを見せていくのであろう。
責任を親に押し付けられる時期というのは、疲れが残ることを知らない。だからこそ華やかな時代をつくることができるのであろう。
#きらめき
どうして靴下脱ぎっぱなしなの、どうしてシャンプーの詰め替えしてくれないの、どうして子どもが夜泣きしているのに気づかず寝続けるの。
日々の不満が少しずつ溜まっていく。最初は耐えうるものでも、いつの間にか耐えられなくなっていることに気づく。
どうしてそんなに怒るの、前はそんなこと言ってなかったじゃないか、どうしてそんなに長く寝るの。
お互いを理解していないことに気がつかない。歪みにも気づかず、少しずつ気持ちが冷めていく。後戻りができなくなる。
やがて、一緒に居るのがしんどくなる。
#些細なことでも
迷いや不安を消す。その比喩として「心を照らす」という表現が使われる。これは自分以外のものが起こさせている場合によく使われているイメージがある。では自尊心が照らす場合は?
#心の灯火
どうすればいいのだろうか。探しても調べても分からない。
わたしはあの人と一緒に居たいけれど、別にあの人の恋人になりたい訳じゃない。2人で居る時間が増えたらいいなって思うだけ、2人で居る時間が多い人を恋人と言うのならば話は変わるけど。
恋人がするものとされる手を繋ぐことやキスは一切したいと思えなくて、寧ろ気持ち悪いと感じてしまう。そんなわたしがあの人の恋人になるのを願うのは、失礼だと思うのだ。ただただしょうもない会話をして、互いに笑い合えればそれでいい。
いっその事、あの人に告白してしまえば楽なのだろうか。けれど、恋人になったときを考えると、ひどく気持ち悪くて、やっぱりあの人に感情を抱かない方が楽なのだと気づく。ただの友達の方が、ある程度の物理的距離を生むことが出来る。
歪な関係。それが1番楽だと気づく。友達ではないけれど恋人ではない。友達にしては近すぎるけれど恋人にしては遠すぎる。許される訳がない。でもやっぱり、それで居たいと願ってしまうのだ。
#言葉はいらない、ただ・・・
楽々波(さざなみ)。連鶴の一種であるそれは、四羽の鶴がくちばし同士だけで繋がりあっている。連鶴の中では比較的簡単に作ることができるのに、出来上がってしまえば、何か難しいことをしていたように感じる。
わたしは今日も、親友たちと一生仲良くいれることを祈って、またひとつ楽々波を折った。
#向かい合わせ