気がつけば暗がりの中で、息を潜めていた。
膝を抱えて一点を見つめていると、暗闇でしかなかったそこにあるものの輪郭がぼんやりと見えてきた。
黒いでこぼこした塊から伸びた棒……あれは、人の足だ。野暮ったい黒いパンプスの裏側がこちらを向いている。慌てて駆け寄り、周囲の闇に同化してしまいそうなスーツ姿の上体を起こした。
その瞬間、そこにだけスポットライトが当たったかのように視界が明るくなった。それと同時に、スーツの女性の顔を正面から見る形になった。
最初は見覚えがあるな、と思っただけだった。だがすぐに私は答えにたどり着いてしまった。
これは私だ。
無個性なリクルートスーツを着ていても、自分の顔ぐらいはわかる。毎朝毎晩、鏡で見るこの顔だ。
次にこれは夢だ、何というたちの悪い夢だろう。それから朝の目覚めは最悪に違いないと考えた。
不意に後ろから気配がした。振り返ろうとしたその瞬間に、背中に衝撃が走る。その後に感じたことのない痛みが押し寄せた。全身の筋肉が固まり、振り返ることもできない。
うめき声が漏れる口から、苦く塩辛い血があふれ出た。そのままぼやける視界の中で、体を冷たい床に横たえる。倒れながら、べっとりと血のついた包丁を携えた人物の顔を確かめる。
私だ。
「ごめんね、私」
包丁をその場に置いて、私は立ち上がった。
スーツ姿の私を抱える若い私。
その向こうには、ひらひらとしたワンピース姿の私。あれは大学生の時だろうか。さらにその向こうにも、見えないくらい向こうにまで私が列になって倒れている。
踵を返して、前に向かって歩き出す。いや、どこが前かなんてわからない。どこを目指しているのかもわからない。
それでも歩くしかないのだ。
遙か先に昏い光が見えるあの場所まで。
花とは本来強いものだ。
園芸種だなんだと言っても、育てる環境を大外ししなければそこそこ育つし花も咲く。
繊細な見た目の、例えば撫子だって土の下では根を張り、競うように茎を伸ばして花を大きく広げ、花粉の媒介者たる虫たちを呼び込んでいる。
我家の庭には、そんな繊細さとは無縁な猛者たちがひしめき合っている。
大輪の紫がこぼれ落ちるように咲くクレマチス、大量の房咲きバラが一斉に開花して一斉に散り、ラベンダー、ダリア、デルフィニウム、それから名前を失念してしまった花たち。
花壇の主のポンコツぶりはともかく、花は名などなくとも咲く。その花から生まれたひと粒のこぼれ種は、次のシーズンに新たな花を咲かせる。いい加減な世話をされながら、土中や飛来する小さな生き物たちとともに、あるいは逞しく戦いながら。
本当に繊細な花というのは意外と少ないのかもしれない。