温泉に入ると、思う。
ここは楽園だなぁ、と。
生まれたままの姿で、ゆっくりと肩まで浸かって、のぼせそうになったら腰かけて浸かって、調節しながら入る。
人によっては、サウナの方が整うというけれども、私は断然、温泉派である。露天風呂だとなおよし。
その浸かっている温泉には効能があったりする。リラックスして入りながら、美肌や腰痛や肩こりなどに効くとは一石二鳥すぎる。
露天風呂なら、四季折々の景色をみることができる。
冬は寒くて夏は暑いが、それでこその露天風呂だ。
鳥のこえが聞こえたり、川のせせらぎがきこえたり。
紅葉を楽しめたり、新緑の気持ちよさ、真っ白の世界に雪を溶かす温泉。
五感全てで楽しめるのだ。
時にはお酒を呑めることもある。
裸で効能のあるお湯に浸かって四季を感じながらお酒をいただく。
極楽、なんて言葉を聞くが、実際の極楽に行ったことがないので、私はこれを「私の中の楽園」だと思っている。
【楽園】
病室の窓は換気のために少しだけ空いていた。
新年度が始まり、普通だったら私も今頃、高校生活をスタートしていたはずだろう。
でも、ちょっとした事故で、現在ベッドで寝たきり生活。ようやく上半身を二十度くらい起こせるくらいになった。
少しあいた窓からは、もう桜のピンク色は見えず、萌える緑色の葉っぱ達だけが見えた。
風は北風から南風にかわり、少し温かい。
そんな風にのって、どこからか歌声が聞こえてきた。
ここは五階なので、外からは聞こえないと思うのだけれども……と、なると、同じ病室から?
風も心地よいけれども、歌声もまた柔らかで心地よい。日向ぼっこに最適な日差しも差し込み、私はだんだんとうとうとしてきた。
あわよくば、歌声だけでなく、私も風にのってこの病室から抜け出したいなぁ。
【風にのって】
飛び出してからは一瞬だった、これが『刹那』と言われるものだと思った。
嫌いなことも、怖いものも、最初の一歩はすごく踏み出すことを躊躇する。
バンジージャンプのようなアトラクションも、受験や会議のような場面も、注射や手術のような治療も、謝罪や報告のようなことも。
行うまではハラハラで怖くて逃げ出したくて。
でも、いざやってしまうと、それは一瞬の出来事で過ぎ去ってしまう。
もう終わってしまった、という呆気なさと達成感。または、やってしまった、という罪悪感と虚無感。
どちらに転ぶかは内容次第だが、一瞬その瞬間、刹那、決まってしまう。
真剣を振りかざしたその刹那、などと時代小説ではよく聞くが、それと比べたら時間的には長いものの、長々と悩み苦しんでいた時間と比べると、最初の一歩を踏み出したあとは、刹那のように感じるのではないだろうか。
【刹那】
いちいち、自分は何のために生きてるんだろう、って、考えたことはある?
生まれたての赤ちゃんだったあなたは、生きる意味なんて考えてなかったでしょう?
親を悲しませないため、結婚してパートナーと幸せになるため、子どもを育て抜くため、仕事の欠員にならないため、全部後付けでできた生きる意味。
生きるために意味なんて必要ないんだよ。
生きる意味を探すためにもがくのは、とても惨めだと思わない?
そんな意味も分からないまま生まれてきた赤ちゃんは、毎日理由もなく必死に生きている。
そっちの方がよっぽど輝かしく見えない?
生きる意味を見つけるのは自由だけれども、それにすがって生きなきゃという義務感は疲れるものだ。
たまには生まれたての赤ちゃんのように、意味など分からず考えず勝手に生きて息苦しさから脱してみよう。
【生きる意味】
光を当てると影ができるように、善きことの後ろには悪しきものがある。
例えば仕事中、とある人が仕事が遅く、周りから目をつけられたとしよう。
その人が更に遅れをとらぬよう仕事を円滑に回るようにサポートをする、という善きことをしたとする。
確かに仕事は回るだろうが、その人の成長を妨げる悪しきことをしたとは思えないだろうか。
例えばネットの世界、人気チャンネルの投稿再生の数字を伸ばそうと、自分の複数端末で再生数を伸ばす、という善きことをしたとする。
確かに数字は延びただろうが、色んな人がみた訳ではないという裏事情を知ったら、嬉しさ半減の悪しきことではなかろうか。
ばれなければ、善きことは善きこと。偽善と呼ばれるものも含まれるが、善である。
それが何らかの妨げになったり、偽善とばれてしまったら、あっという間に悪しきことにもなるであろうが。
あなたの善悪は、きちんとつけれていますか?
それは本当に善ですか?
【善悪】