ドダゴンッ!
娘の真菜の寝室からすごい音がして、俺は目を覚ました。一体何が起きたのだろう。前にも何度か真菜がベッドから落ちて泣きわめくことはあったが、それにしてもこんな衝撃音は聞こえたことがない。
「真菜? どうした、大丈夫か?」
真菜の部屋に行きながら声をかけるが、返事はない。これはヤバいかもしれないと焦りながら真菜の部屋の扉を開ける。
「真菜? 大丈夫…うわっ」
そこには、真菜と、光り輝く人間がいた。なぜか顔は見えない。それに、天使がつけているような羽を背中に生やしている。これではまるで、神様のようではないか。
「あぁ、お父さん、起きましたか。まぁそれはいいのです。それより真菜、何度言ったら分かるのですか。私はこの世界の神なのですよ」
彼───否、神様は俺をチラリと見ただけで、すぐに視線を真菜へと移した。俺は震える足でなんとか立ちながら、神様を凝視する。
神様を見るのは初めてだ。俺の親はキリスト教徒だから聖書を何度か読まされたことはあったけども、まさか本当にいるとは思わなかった。
いやしかし、この方はどの宗教の神なのだろう。キリスト教だと断言するにはまだ早い。
「あぁ、ちなみにキリスト教の神が私です。他の宗教の神々には最近会っていないですね。元気だといいのですが。それより、お父さん」
神は俺の考えを見透かしたかのように答え、それから俺を見た。恐ろしさに体が固まる。
「さっきからあなたの娘が「嘘、あなたは悪魔でしょ」と言い張るのですが」
その口から出た言葉は更に恐ろしく、俺は思わず真菜を睨んだ。
「どこからどう見ても神様だろ? なのになぜ悪魔だなんて酷いことを言うんだ」
まだ小さいとしても、もう真菜は九歳だ。そのオーラからこの方は神様だくらいは分かるはずなのに。
その考えが伝わったのだろう、真菜は軽蔑するような目を俺に向け、それから口を開いた。
「お父さんはもう忘れてるかもしれないから言うけど、この人は神様じゃないよ。だって辻褄が合わないんだもん、キリスト教とは」
どういうことだろう。昔よく母が真菜に聖書を教えていたが、それと関係あるのだろうか。
「たくさんあるの、この人のおかしいところは。まずはね、神様を見たら人間は死ぬはずなんだよ。少なくともキリスト教ではそう。それなのに私、死なないし。それにね、神様はものすごく大きいの。私のところに来るとしても天使を遣わすだろうし、そもそも神様は人間と似た容姿だから羽なんか生えてないよ」
それからも、真菜の話は続いた。夢でも現れなかった神が実際に突然現れたことへの不信感、なぜか自分が神だと信じてもらおうと必死になっていること、そして悪魔もこの方と同じような姿かたちをしていて、神だと信じさせることで真菜に罪を犯させようとしているなら辻褄が合うこと。
俺は初め圧倒されながら聞いていたが、徐々に神様の異変に気がついた。神様の輝きはどんどん薄くなり、そしてその顔には憎悪の表情が浮かんでいったのだ。だんだん禍々しい雰囲気を放つようになり、確かにその姿は悪魔にしか見えなかった。
「他の宗教の神々ってのも会ったことないんでしょ。私、色んな神様に詳しいから、この人の思い出話もどきを聞いてたらすぐに分かったよ」
その言葉で神様───いや、悪魔ははっきりと顔をしかめ、何も言わずに消えてしまった。俺はガッツポーズをして真菜の頭を撫でようとする。しかし、ふと思い立ち質問をしてみた。
「真菜はすごいけど、なんでそんなに分かるんだ? 大人の俺でさえ騙されるところだったのに」
そう聞くと、真菜は得意そうに笑って答えてくれた。
「見た目や雰囲気だけで人を判断して疑らない大人よりも、純粋な子供の方が真実にたどり着けるってこと。これも神様の言葉だよ。真実は全部、聖書が教えてくれるから」
───「神様が舞い降りてきて、こう言った。」
「田丸一郎さん、ノーベル賞受賞です!」
日本の男性がノーベル平和賞を受賞したことで今朝のニュースはもちきりだ。同じ国の人が平和に繋がることをして受賞されたことをもちろん私は誇りに思う。
でも、彼のみが受賞されるのに納得はしていない。今見える彼自身も、その裏にある人々の努力を忘れているように見えた。
きっかけは、とある夢だった。その日、私は授業で中東の戦争とその影響についての動画を見た。そのせいなのかは分からないが、夢の中で私はその現地、つまり「戦場」にいたのだ。せまりくる弾丸、雄叫び、歯を食いしばって恐怖や痛みに耐える私よりも小さな子供たち。
彼らの手には銃があり、立派な兵士としてこの地に送られていた。まだ12歳なのに家族を守るために自らの命を犠牲にする、その事実に私は衝撃を受けた。
動画でもそのようなことは言っていたのだが、実際に見るのとはやはり感じるものが違う。そのときの夢の中の私も命の危険は十分あったのだが、そんなことは気にもならなかった。とにかく彼らを守りたかった。
でも、そうはならないのが現実。目の前で死んでいく彼らを私はただ無力感に襲われながら見ることしかできず、それがもどかしくて悔しかった。
夢から覚めたとき、私は泣いていた。絶対に彼らを救いたいと思った。もちろん夢の中の話だから、彼らが本当に実在する少年とは思えない。でも、至極似た状況にある少年少女が現地にいるのは確かだ。
初めて、人の命をとても尊いものだと思った。命が大切なのは知っていたけれど、身をもって実感したことはない。
それからの私は早かった。とにかく地理と歴史を勉強しまくり、先生たちとも相談して中東の戦争状況や理由などを研究している教授のいる大学に入り、一人でも多くの命を助けるために多くを学んだ。
同じように命を助けたいと思っている仲間を集め、何度も話し合い、何度も国のお偉い様方を説得してようやく、現地に行く許可がもらえた。ひどく嬉しく、でも覚悟も大きかったのを覚えている。
今度こそ、彼らを救うのだ。そのために自分の命が脅かされてもかまわない。救うことのできた少年少女の中に、これからの平和の鍵を持つ子がいるかもしれない。助けることで、現地で何かが変わるかもしれない。
それが誰かのためになるならば、私はそれを厭わない。
そう思っていたし、仲間もみんなそうだった。その考えは今も変わっていない。
早速現地に行き、少年少女たちと話もした。彼らは自分の家族を愛していて、だからこそ戦地に赴いている。でも、彼らの家族もまた、彼らを愛していた。訪ねてみると、亡くなった報告だと勘違いして泣き崩れる親や、我が子を心配してもともと少ない食事さえもままならない人がほとんど。
人間の愛の深さに私たちは感動し、栄養と体温の確保に必要なものをできる限り与えてその場を去った。
軍備を与えると敵国と日本が対立することになりかねない。そう考えた私たちは、少年少女たちに栄養たっぷりの食事と毛布、それから衛生面のいい手当をほどこった。そのおかげか、やつれていた彼らの顔も徐々に輝きを取り戻している。
そのようなことを繰り返すうちに、私たちは敵国の少年少女にも同じことをするようになった。対立していても人間だし、子供だ。命に優劣はない。
そんな私たちの思いが大人たちにも伝わったのだろう。少しずつではあるが戦争は終息していった。
だが、終息した喜びを私たちは分かち合うことができなかった。迫りくる銃弾を避けきれずに命を落とす仲間や、大怪我を負って日本に帰らされた仲間がほとんどで、残ったのは私と田丸だけ。かくいう私も、終息を目前に攻撃によって命を落としてしまった。
そういうことで、田丸は一人きりで終息の現場を見、日本に帰ってきたのだ。そんな彼を、もちろん日本は歓迎した。ノーベル賞も受賞した彼は、今我が物顔で壇上に立っている。
だが私は知っている。この戦争のために命を尽くしたのは彼以外にもたくさんいるということを。彼らの知識のおかげで、田丸は今生きてここにいる。
誰かのためになるのならば、命は惜しくない。そう考えているのは、田丸以外の全員だ。彼は、ちやほやされるうちにその思いを忘れてしまった。
もう霊となった私にはどうすることもできないし、賞が欲しいわけではない。ただ、みんなで命を捨ててまで行動していたあのときの思い───私たちの合言葉でもある「ワンフォーオール、オールフォーワン」を、忘れないでいただきたい。
そう願いながら、私は成仏するのを感じていた。
───「誰かのためになるならば」