どうして
日々の中で不満を感じると、どうして思い通りにいかないのかと、頭の中が"どうして"で埋め尽くされる。
考えたところで自分の感情が落ち着くわけでも、なにか答えが出るわけでもない。なのになぜか、頭に浮かぶのはどうして、なのだ。
誰かや何かのせいにしてしまいたくて、現実を見るのがどうにも怖くて、向き合うことから逃げてしまう。
原因が分かっているのであれば、改善することもできるだろう。それなのに原因を探ることさえ意識的に--はたまた無意識的にか--避けて、答えを出さないと決めた上で、ひたすら薄っぺらい"どうして"を唱えているのだ。私の発する"どうして"は、なんと意味を持たないのか。
一体これは誰のために、何のためになっているのかとふと思う。何かがある度に"どうして"に支配されるのはどうしてなのだろう。
夢を見ていたい
いつの間にか夢を見なくなった。
少し前までの自分は、身長も、人としての器も、何もかもが小さかった。それなのにバカみたいに大きな夢を、何個も何個も溢れるほど抱えていたものだ。
それは時が経つにつれて身や心の成長と反比例するように小さくなっていき、やがて夢を見ることさえ忘れてしまった。
人間というのは欲のある生物だ。現実ばかりを見て欲をかかなくなってしまっては、それは生きていると言えるのだろうか。
あの頃の、たくさんの夢を見ていた私は一体どこへ行ってしまったのか。
いつまでも夢を見ていたい。
ずっとこのままでいいのだろうか。
そんなことを今日もまた考えてみる。
特に目標があるわけでもなければ、何か特別面白い出来事も起こらない。ただ毎日決められた事を決められた時間にこなすだけのダラダラと過ぎていく日々。
何のために、誰のために生きているのか。もはや生きるとは一体何なのか、わからなくなってしまいそうだ。
どうにかしてこの不変的で意味の無い日々から脱却したい。しかし、その為に何をすればいいのかを考えることすら、日々の決められた生活の波から外れているようで、思考の船は繋ぎとめられたまま動く気配はない。
結局は堂々巡りのまま時間だけが過ぎていき、夜になるとまた布団に入り、今日と同じ明日を夢みて目を閉じる。
ずっとこのままでいいのだろうか。