「ゼンウナ。お前の見える限りの土地全て、うちの土地だ」
幼い頃、祖父に抱っこされて聞いた低く響く声は忘れない。
ゼンウは幼名で、愛称の呼称として語尾にアやヤ、ナを付ける。
「いいか。勉強は一生するもんなんだ」
私は不思議そうに、髭の生えた祖父の顎を見上げる。
「そして、潔癖で誠実であれ。そうすれば、おのずと開ける」
確かに祖父は潔癖だった。御膳の箸が曲がっている事も嫌っていた。
「お前が男の子だったらな」
何度言われただろう。
畑を耕し続けた大きなふしくればった手に抱かれ、私は眠ってしまっていた。
いつしか祖父も亡くなり、私は大学を出て、日本人の男性と結婚し日本で暮らしていた。
今でも思い出す。
ラジオから流れる当時の韓国の歌謡曲と共に祖父に抱かれて眺めた山々を。
祖父の期待に応えられているだろうか?
題:君の奏でる音楽
ChatGPTに尋ねてみた。
・「世間では」等、カテゴライズされたものに時々疑問を感じるのはおかしいでしょうか?
Answer
「世間」という言葉には、確かに「常識」や「普通」といった一般的な価値観や期待が含まれています。しかし、その「常識」や「普通」は時代や文化、地域、さらには個々人の経験によって異なることも多いです。ですので、それがよく分からないと感じることは全く不自然ではありません。
また、「世間の常識」は必ずしも絶対的なものではなく、むしろ多くの人が何となく共有している認識に過ぎないこともあります。だからこそ、自分自身の価値観や感覚が「世間」と違うと感じることがあっても、それはあなた自身が個性的で、自分の道を歩んでいる証拠とも言えるでしょう。
時には「世間」に合わせることも必要かもしれませんが、自分の感覚を大切にし、他人に惑わされずに自分の価値観に従うことも大切です。もし「世間」と自分の考えが合わないと感じるときは、それを考える機会と捉え、自分が本当に信じるものや、自分にとっての「常識」が何なのかを見つめ直すことができるかもしれません。
私にとっての当たり前をChatGPTが言語化してくれた。こうして文字になると不思議と安心できる。
「それぞれ」だから美しい。
題:蝶よ花よ
人ってさ。
ある日突然死ぬんだ。
題:鐘の音
大学へは最低単位数を取るだけの為に行っていた。
その他は自宅でオンラインゲームに時間を費やしている。
美しいアニメーションで、自由に冒険できるオンラインRPGに嵌っていた。
ストーリーを進めていくと、協力プレイが可能となり、他のプレイヤーとチャット交流が可能になる。その中で特に仲良くなったプレイヤーの娘がいた。
一週間に数回、Discordでボイスチャットをしたりしているうちに、彼女を好きになるのにはそう時間はかからなかった。
勝手な妄想でワンピースを着た彼女を想像し、キャラクターを通した文字での会話とボイスチャットでの彼女の柔らかで高めの声を脳内で組み合わせ、自分の中での彼女が作られていった。
僕からVideoで会いたいと伝えた。
「...」の表示が永遠にも感じられる。
「ごめんなさい。実は…結婚してるの。このままの関係じゃ、ダメかな?」
僕の中の理想像が、足下からがらんがらんと音を立てて崩れていった。
暗闇の中。モニターの灯りに照らされた僕は、夢なら良いのに、そう思った。
題:目が覚めるまでに
はじまりの場所。
まだ蒼く、小さく泣くあなたを胸に抱いた時。
「愛しい」という言葉の意味を知った。
大人の親指ほどの握り拳を、胸の膨らみに押し当て、顔を横に向けたまま、この世界に産声を聞かせてくれた。
とても小さな、小さな足裏を必死に蹴り上げて雄飛する。
歪だけど、愛らしく丸い頭を両手で包みこんだ。
どんな人も。
生まれ落ちた瞬間は、平等に愛される権利がある筈。
例え。
愛されなくても。
愛する権利を私達は持ち合わせてる。
題:病室