セーター
冬の初め、空気がぐっと冷え込んだ朝のことだった。大学三年生の佐藤亮太は、部屋の隅に丸まっていた古いセーターを手に取った。柔らかなグレーの編み目は少しほつれかけているが、その分、暖かさが増しているように思える。高校時代、母が編んでくれたものだ。
「これ、まだ着るのか?」
ルームメイトの拓也がベッドの上から声をかけてきた。彼は身長が高く、モデルのようなスタイルで、いつも流行の服を身にまとっている。対照的に、亮太は流行に疎く、服も何年も前のものを平気で着ていた。
「うん、これが一番暖かいからさ」
亮太は微笑んで答えた。
拓也は肩をすくめると、「お前らしいな」と言い残してバイトに出かけて行った。
その日の午後、大学の図書館でレポートの調べ物をしていると、同じゼミの夏目紗季が声をかけてきた。彼女はいつも明るくて、周りの人を自然と引きつける魅力がある。
「佐藤くん、そのセーターかわいいね。手編み?」
亮太は少し驚き、そして照れくさそうにうなずいた。
「母が編んでくれたんだ。もう5年以上前だけど」
「へえ、すごくいい感じ。今時、そういうのって逆におしゃれだよ」
紗季の言葉に、亮太は少しだけ胸が温かくなった。自分では気にしていなかったけれど、このセーターには自分らしさが詰まっているのかもしれない、と思えた。
数日後、紗季がゼミの打ち合わせの後で亮太に近づいてきた。
「私もセーター編むの好きなんだ。昔から趣味でね。でも、最近忙しくて全然やってないの」
「そっか。でも、紗季さんが編むなら、きっとすごく上手なんだろうな」
「そうかな? じゃあ、今度一緒に編んでみる? 教えてあげるよ」
亮太は少し戸惑ったが、紗季のキラキラした目に引き込まれ、「ぜひ」と答えていた。
それからの数週間、二人は授業の合間にカフェや公園で編み物をするようになった。紗季は自分のセーターを作りながら、亮太にも初心者向けのマフラーを編む方法を教えてくれた。
ある日の夕方、編み物の練習が終わると、紗季がぽつりと言った。
「こうやって誰かと一緒に過ごすの、久しぶりかも」
「そうなの?」
「うん。私、ずっと一人で頑張らなきゃって思ってたから。でも、佐藤くんみたいに、自分のペースで大事なものを持ち続けるのも素敵だなって思うようになったんだ」
その言葉に、亮太は少しだけ恥ずかしくなりながらも、「ありがとう」と返した。
冬が深まる頃、亮太はようやく完成させたマフラーを手に、紗季に渡した。
「これ、まだ下手だけど」
紗季は嬉しそうに受け取り、首に巻いてみた。
「ううん、すごくいいよ。亮太くんらしい、優しい感じがする」
その瞬間、亮太は思った。このセーターが紡いだ出会いは、きっと特別なものだと。
冷たい風が吹く街で、二人は一緒に歩き出した。暖かいセーターに包まれた心は、冬の空の下で少しずつ、新しい形に編まれていくのだった。
子どもだった頃、大人になりたかった
大人になったら、子どもに戻りたい。
ないものねだりだね。
『やりたいこと』
やりたいことは、なんですか?
そう聞かれて、一つも思いつかないなんて。
明日の約束が怖くて、「またあした」とそのたった5文字が言えなかった。
✳︎
令和のこの時で、明日不慮の事故で死んでしまう確率はどれくらいのものだろう。0.000109パーセント。これは死なない。そう、死なない。だから明日は当たり前のようにやってきて、そして当たり前のように別の明日がやってくる。
それなのに、それなのに。
明日の約束が怖い。とてつもなく怖い。明日が怖くて、夜も眠れない日がある。歩いていると、ふと後ろを振り向くとそれは闇のような気がする。
私が見えているものだけが、世界かもしれない。私以外、この世には存在しないのかもしれない。これは夢で、起きるとそこに何もないのかもしれない。
どうしようもないことだ。
だけど、そんなことが怖くて。こわくて。
大好きなひとたちに、『またあした』と言えない。