親愛なる読者の皆様、アマリリスでございます。
今頃皆様は1年後、自分が何をしているか、先の未来を思い浮かべていることでしょう。
人というのはこの先の未来について問われると
なにか目標を掲げたり、なにかを成し遂げているであろうと考えがちでございますね?
それも良いことではございます。
けれども、1年後なんて地球や自然、生き物からしたらあっという間のことですのよ。
《将来》で何かを成し遂げていなくても、目標を掲げなくても良いのでございます。
ましてや、たった1年で貴女方の今までの暮らしを簡単に捻じ曲げられは致しません。
けれども、良いのです。
今ままでのように《自身》を全う出来ていれば
100万年が経とうとも、貴女方は素晴らしいのです
わたくしはそう考えます。
親愛なる読者の皆様
アマリリスです。
今回のお題では少し私のことを話しましょう。
幼い頃は、私は食卓が大好きでした。
食べる暇もないくらいお喋りな子で、ご飯も何もかもが楽しくて夕方になるまで待ちきれないほど。
けれど、成長するにつれて純粋な子供ではいられなくなるのです。
それは嬉しいようで悲しいような、複雑なものであると皆様ご存知でしょう。
私は父が厳格だったため、ありとあらゆる礼儀作法やマナー叩き込まれて育ちました。
そのおかげで、私めは食事を楽しめないのです。
共に食事を楽しむ方の作法や所作が気になり、不愉快に思えて、楽しめなくなってしまうのです。
けれども相手の方からは
「食事の仕方が綺麗ですね」
と、賞賛の声をいただけます。
これは、嬉しいことでございましょう?
私の話はここらへんにして、なぜ私がこの話をするのか。それは単なる自慢ではございません。
無知で純粋なあの頃と、知識を身につけた今と。
貴女方はどちらも素晴らしいのです。
幼い頃を懐かしみ振り返ると、今の自分は変わってしまったと後悔する方が多いように思えます。
けれどもそれは間違い。
幼き頃の自分も今の自分も愛さなければなりません
何も知らなかったからこそ、世界の甘みも苦味も楽しめたではありませんか。
幼い頃の自分を貴方の宝物にしてくださいな。
親愛なる読者の皆様
アマリリスでございます。
皆様方が聞いて浮かぶ日常はどこか似通っている。
わたくしはそう思います。
『朝食をとる』『ベッドから起きる』など
そのようなものが普通の日常であると固く根付いてしまっているのです。
けれど、そうじゃなくても良いじゃありませんか。
日常なんて人それぞれです。
朝食をとらなくたって、朝に目が覚めなくなって。
何だっていいのです。
貴方が息をし、自身の生き方をしている。
それはもう貴方にとっての、貴方だけの日常だと
そう言えるのですから
ですから、どうか後悔しないよう
息のしやすい日常をお送りしてくださいますよう
眺めております。