#ずっとこのまま
窓の外では、今日も同じ街灯が同じ色で光っている。
同じ時を繰り返しているみたいだ、と僕は思った。
朝は同じ音で目覚ましが鳴り、同じ道を歩き、同じ顔ぶれとすれ違う。教室の黒板も、駅のホームも、帰り道の自販機も、昨日と何一つ変わらない。
変わらないことは、楽だ。考えなくていいし、選ばなくていい。
「ずっとこのままならいいのに」
ぽつりとこぼした言葉は、誰にも届かず、部屋に溶けた。
変わるのが怖かった。
もし何かを失ったら?
もし今よりうまくいかなかったら?
今の自分を否定されるような気がして、足がすくむ。
それでも、ある日ふと気づく。
同じだと思っていた毎日が、少しずつ違っていることに。
昨日は気づかなかった花が咲いていて、
いつも無表情だったクラスメイトが笑っていて、
自分の声が、前より少しだけ大きくなっている。
変わらないと思っていたのは、世界じゃなくて、自分の目だったのかもしれない。
「ずっとこのまま」
その言葉は、止まりたい願いじゃなくて、ただ壊れたくないという祈りだった。
僕は窓を開けた。
夜風は冷たくて、でも心の奥を軽く叩くような風だった。
全部が一気に変わらなくていい。
一歩じゃなくてもいい。
今日と明日の違いが、ほんの少しでいい。
それならきっと、
「ずっとこのまま」は、
「ゆっくり進んでいく」という意味に変わる。
街灯は相変わらず同じ色で光っていた。
でも僕はもう、それを「同じ光」だとは思わなかった。
透明な羽
朝の光が、レースのカーテンを透かして部屋に落ちていた。
床の上に、一本の"羽"が落ちているのが見えた。
けれど、それはどこから見ても「透明」で、手に取ると指の間をすり抜けた。
気のせいだと思った。けれど、それは形を持っていた。確かに、羽だった。
ふと目を向けた庭には、犬がいない。
いつもなら、散歩に行きたくて吠える声が聞こえる時間なのに。
あの子は、三日前に眠るように息を引き取った。
病院の帰り、抱きしめた体はもう温かくなくて、私は「もっと早く気づいていれば」と何度も口の中で繰り返した。
その言葉を吐き出すたび、胸の奥がひどく痛んだ。
羽は、あの日以来、時々現れる。
光の中、風が通るたびにひとひら舞い、すぐに溶ける。
誰にも見えない。
私だけの幻覚なのかもしれない。
でも、それが見えるたび、あの子の名前を呼びたくなる。
呼んでしまえば、泣いてしまうと分かっているのに。
思い出すのは、最後の散歩の日。
あの子は足を引きずりながらも、どうしても外に出たがっていた。
だけど私は疲れていて、少しだけ待たせてしまった。
「あとでね」と言ったその"あと"は、もう来なかった。
あの時の短い言葉が、今も後悔として胸に突き刺さっている。
透明な羽が、またひとつ落ちた。
光を透かして、床の上に淡く揺れる。
私はしゃがみ込み、そっとその上に手をかざした。
触れようとすると、羽は空気の中に溶けて消えた。
まるで「いいよ」と言ってくれているようで、その瞬間、頬にあたたかいものが伝った。
泣いているのだと気づくまで、少し時間がかかった。
あの子はきっと、もうとっくに私を赦している。
透明な羽は、私の中に残っていた小さな痛みの形。
見えなくても、確かにここにあった。
そう思えた瞬間、部屋の空気がやわらかくなった。
外では、風が新しい朝を運んでいる。
私は窓を開けて、小さく息を吸った。
空気の中に、かすかに光る羽がひとひら、舞い上がる。
それはまるで、見えない翼が私の背中に触れたようだった。
——ありがとう。
声にはならなかったけれど、心の中で確かに届いた。