落下=高いところから落ちること。
純粋に高い場所から落ちる落下は、怪我のリスクがある。最悪、命を落としてしまうこともある。
肉体的な落下以外では、例えば高い評価にあった人が低い基準になる等が例として挙げられるだろうか。
こちらは肉体の損傷は無くとも、心や精神面の損傷を受ける人がいるかもしれない。
やはり一般的に、高いところから落ちるというのは人にとって良くないことなのだろう。
ところで、肉体的な面での高さというのは、誰が見ても明らかなものだ。では、もう一方の例の高さとはどういうものなのだろう。
高い基準やら低い基準やら、これは一体何だろうか。
何百人何千人のデータから得た平均なのだろうか?
平均以上を高くといった価値基準なのだろうか?
それとも誰か一個人の裁量なのだろうか?
考えても疑問は尽きない。
そもそも、何万人、何億人の平均以上、以下であるから何だというのだろうか。
天は人の上に人を造らず。命は平等であろうに。
どうも歪な価値基準が見え隠れしてしょうがない。
しかし、人は比較好き故、今後もこの相対的な平均とやらに振り回されることになるのだろう。
物理の世界において、物が落ちた際、落下を止める手立ては行動のみしかない。願っているだけでは、落下は止められない。
また、落とし所が悪ければ物が壊れるという現象も起きるだろう。
しかし、精神の世界では自身が支えようと思うだけで落下は止めることができる。また、地に落ちたところで、壊れないと決めれば壊れることもない。
全ては己の判断に任されている状態だ。
他人が下した価値基準からの落下を経験してしまうと動揺し、まともな判断ができなくなることもあるだろう。
しかし、思い出して欲しい。
その以前よりも悪いと判定した価値基準は、他人が勝手に決めたものでしかなく、時が変われば意味すらも無くなってしまうものかもしれないということを。
そんな移ろいやすい基準で自身を苦しめているのなら非常に勿体ないことだ。
命の価値基準というのは何をおいても常に最上であり、他人の決めた基準など目ではないのだから。
「貴方の将来の夢は何ですか?」と言う質問は、人生で一度か二度は必ず出会うものだ。
来年のことを言うと鬼が笑うというのに、何故、何年も先の未来のことを人は聞くのだろう。
「明日生きているとも限らないのに、何故問うのですか?鬼が笑いますよ」
なんて返したら、きっと嫌な奴で話も出来ない奴と言われてしまうのだろう。
そうわかっているから、無難なもので濁してしまう。お茶を濁す未来──現実の未来まで曖昧になってしまいそうだ。
とは言え、自身の未来像を持っているかというと、これが全く持っていないのだから困りものだ。
せめて自身の未来のビジョンくらいはしっかり持っておくべきなのだが、自身の事なかれ主義と虚無主義の弊害は随分大きいようだ。
一年前どんな生活と聞かれたら、
「今と変わらない生活」と答えてしまう。
朝起きていつもの時間、いつもの電車で仕事へ。
楽しいこともあったけれど
一年という塊で見た時、
今とたいして変わらないと思ってしまうのだ。
でも、
一年前私はここで文章を打つことはしていない。
一年前の自分では想像すらしていなかっただろうな。
お題に沿って文章を打つなんて。
一年、365日。
その数字の前に私は漠然とした感じを抱いて、
大雑把に捉えてしまうけれど
日々変化している。
一年前の私から、今の私へ。
では、一年後は?
一年後、私はどんな変化をしているのだろう。
不変なんてないこの世界で、どう変化していこうか。
さて、上記は1年前の私が書いた文章だ。
1年前の私へ今日はAnswerといこうじゃないか。
さて、1年前とは職場環境が変わってしまったが、飽きると思ったこのアプリは、一日も休むことなく続けている。
私に少しの変化があったのと同じようにこのアプリにも変化が起きていて、新しいお題が更新されなくなった。
その兆候が見られたのは、5月後半あたりからだろうか。
6月に至っては、全部リバイバルテーマとなってしまっている。
今月は本当にずっとリバイバルのままで終わってしまうのだろうか。
では、来月は?
来年は?
今後、新しいお題が来ることはもう無いのだろうか。
年が違うだけで、同じ月日のお題が提示されていく今。
ループが終わらず、1周目から2週目へとなったとしたら…。
些かの不安が過る今日此の頃だ。
作家縛りで好きな本
「78」
「針が飛ぶ」
「つむじ風食堂の夜」
「それからはスープのことばかり考えて暮らした」
「空ばかり見ていた」
「フィンガーボウルの話の続き」
「すぐそこの遠い場所」
「クラウド・コレクター」
「らくだこぶ書房21世紀古書目録」
「ないもの、あります」
「注文の多い注文書」
穏やかな話が、好きなのです。
天気は、人の力で制御できるものではない。
主導権は常に天気にあり、人は選択権を持たず、また、拒否権も持っていない。
そんな理不尽な天気を相手に人ができることは、対処でしかない。
しかし、あいまいな空の場合、どちらの天気に傾くか分からないのに対処しなくてはいけないという状態になる。
しかもそれは、二分の一で外れるのだからたまったものではない。
あいまいな空は、意地悪だ。