清々しい気持ちだった。見渡す限りの草原の真ん中に立って全身に風を浴びているような、学校の屋上のフェンスにしがみつきながら大声で叫んでいるような。一本のナイフで自分よりも身体の大きな男を刺し殺したような。そんな快感だった。
男は、僕に命乞いをした。二十くらいは歳が離れていそうな、一本のナイフを持ち上げるのにさえ両の手を使うほどの子供に対してだ。僕は優しい性格の持ち主ではなかったけれど、男の言葉を聞く余裕はあった。もうこの男に戦う力が残っていなかったからだ。
男は顔の筋肉だけを動かして声を出した。蚊の鳴き声よりも弱い、くすぐったい声だった。しばらく呻き声のようなものを上げた後、ゆっくりと天気の話をし始めた。
「晴れであるか曇りであるかの定義は、雲の量によって決まる。少なくとも俺はそう習った。なら、今の夜空は、晴れだと言えるのか? 雲はなく、都会だから星は見えないが、全く曇っている感じはしない。ここからビルや住宅を全て除いたなら、満天の星空が拝めるだろう。もはや晴れというより快晴だ。しかしお前は快晴と聞いて、夜の空を思い浮かべるか?」
やけによく喋ると思った。僕は男の声が嫌いだった。だから聞いているうちに、まだ残っている力で男の喉を裂いてやろうと思いついた。しかし僕は最後まで話を聞いた。
「お前の妹の最期は、まさにこの快晴だった。殺したのは昼だが、時刻の問題じゃない。俺が仰向けに寝ているアイツの胸を刺すと、背中の後ろから真っ黒な海が広がっていった。そしてアイツの体の三倍くらいの大きさになったところで、俺はこれを夜空みたいだと思った。とても鮮やかな血だったから、曇っているだなんて思わなかった。光の反射で星が瞬いているようにも見えたんだ」
僕は男の体を仰向けに寝かせた。男は黙ったから僕の耳は不快な音を拾わずに済んだが、今度は僕の目が不快だと訴えた。男の口角がニイッと上がったからだ。男の体をすぐうつ伏せにさせて、間髪入れず胸を刺した。何度も刺した。血の海はみるみる広がったが、周囲に血飛沫が飛んだ。
どのくらい経ったか分からなかった。そろそろ快晴とやらを見るか、と血の海に目を向ける。そこに快晴はなく、乾いた赤い砂漠が広がっていた。
――快晴
慣れないことはするものではない。身の丈にあった生活をする。彼女の誕生日やクリスマス、それから私たちの結婚記念日。そういった日に、少し背伸びするだけで良い。それが彼女から教えてもらった、最初で最後のアドバイスだ。
彼女は無口な人だった。そして私から見る限りは、あらゆることに無関心な人だ。三十を過ぎた頃の誕生日、何をあげたら良いか分からなくて、一度彼女自身に希望を聞いたことがある。そうしたら彼女は、なんでも良いと言った。彼女との約四十年間で、一番耳にした言葉だ。
だから、私は彼女のことをよく観察するようになった。そうすれば、彼女の欲しいものではなかったとしても、最低限貰っても困らないものを贈ることができると思った。実際にそれが正しかったかどうかは分からない。彼女は感情を表に出すことが段々と減り、プレゼントをあげたときも、ありがとうの一言だけで済ますようになった。泣いて喜んでほしいとか、細かな感想が欲しいとか、そんな傲慢な考えは持っていない。しかし私には、彼女が「ありがとう」という感謝の気持ちを持っているのかどうかさえ、分からなくなっていたのだ。
私から彼女にあげた最後のプレゼントは、一万円札五枚だった。私はある日の仕事帰りに偶然、駅の近くのカフェで女性数人とお茶をしている彼女を見つけたのだ。そこにいた彼女は、もうすっかり思い出せないほどにまで薄れてしまった、笑った顔をしていた。私はそれを見た瞬間、初めて、心が折れるというような感覚がした。私がどれだけ試行錯誤をしても、彼女の笑顔を引き出すことはできなかった。私には友人との食事をプレゼントしてやることはできないが、せめていつ食事のお誘いが来ても困らないよう、お金を渡すことはできると思った。
だから私は一年前の彼女の誕生日に、食卓の上に五万円を置いた。しかし彼女は喜ぶどころか、ありがとうすら言わず、もうプレゼントはくれなくていいわ、と言った。私も、何も言わなかった。それが彼女と交わした最後の言葉だった。
私は今、彼女の墓参りに来ている。
彼女が亡くなったのはそれから数日後の、友人との食事に出かけた日だった。ただの交通事故だった。幸い遺体はとても綺麗で、出会ったときと同じ美しい顔をしていたのを覚えている。私は知らなかった。彼女が白いアザレアの花が好きだということを。遺品の整理やなにやらで彼女の実家に伺ったとき、彼女の妹から聞かされた。
「これが、本当に最後のプレゼントだよ」
きっとこんなものでも、彼女は喜んでくれたのだ。私が彼女のことを愛していると分かれば、それで。私は彼女の墓に、白いアザレアの花束を供えて、手を合わせた。
――花束