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7/9/2025, 1:30:44 AM

あの日の景色

 高野山の奥の院の辺りに、“姿見の井戸”と呼ばれる井戸がある。
覗き込んで自分の姿が映らないと、三年以内に死ぬのだそうだ。

 曇り空のあの日、あの人と軽い気持ちで中を覗いた。
 井戸は想像よりもずっと狭く深く暗く、水面が落ち葉に覆われてよく見えない。
ざわざわと木立が騒ぎ、どこかで鳥が甲高く鳴いた。
 言い伝えをそのまま信じるわけではないけれど、何だか急に不安になった。

 「ちゃんと映ってるよ、二人とも」
そう言って、ぎゅっと肩を抱いてくれたあの人が、世界で一番好きだった。

7/8/2025, 3:38:56 AM

願い事

 ランタンフェスに行こう、と誘われて夜の海辺へ。
 今のランタンリリースは、ラプンツェルの映画みたいに空へ飛ばさない。
環境問題とか色々あって、願い事を書いた紐付きのランタンを凧のように浮かべるだけだ。

 夢が叶いますように、幸せになりますように、平和でありますように。
 皆の願いがオレンジ色の灯りになって、ふわっと一斉に浮き上がる。
うっかり見過ごされてしまいそうな、淡い淡い蛍のような光を精一杯高く掲げる。
 きっと空の神様も、あれは何かな?と目を凝らしてくれたはずだ。


7/7/2025, 1:11:52 AM

空恋

 今日は年に一度しか逢えない、空の恋人たちのための日。
だから今夜は会わないし、電話もLINEもしてこないでね。

 あなたが居なくて、悲しかったあの頃を私が忘れないように。
 私たちが幸せに慣れ切ってしまわないように。

7/6/2025, 1:40:26 AM

波音に耳を澄ませて

 耳鳴りがするの…と少女が受診にきた。
この前海へ行ってから、波の音がして止まらないんです。

 中耳を覗くと、なるほど波音の結晶が出来ている。
こんなに大きいのは珍しいから、よほど楽しい記憶だったのだなと私は思った。
「思い出の音に何度も何度も耳を澄ませると、結晶になってしまうことがあるので気をつけて下さいね」
 そう言うと、少女は顔を赤くして
「はい」と小声で答えた。

 「取った結晶を持って帰りますか?」
「お願いします」
 小ぶりのジップロックに、ビーズのような結晶を入れて渡すと、少女は大事そうに鞄に仕舞って帰って行った。
 夏になるとこういう患者さんが増えてくる。


7/5/2025, 12:30:55 AM

青い風

朝8時。
どこかの草原で生まれた風が、青い馬になってやって来た。
夏を連れてきたよ!とトロットで。

「間に合ってます」
お断りしたら、拗ねてもわっと熱気になった。
もう出て行く気はないみたい。

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