あの日の景色
高野山の奥の院の辺りに、“姿見の井戸”と呼ばれる井戸がある。
覗き込んで自分の姿が映らないと、三年以内に死ぬのだそうだ。
曇り空のあの日、あの人と軽い気持ちで中を覗いた。
井戸は想像よりもずっと狭く深く暗く、水面が落ち葉に覆われてよく見えない。
ざわざわと木立が騒ぎ、どこかで鳥が甲高く鳴いた。
言い伝えをそのまま信じるわけではないけれど、何だか急に不安になった。
「ちゃんと映ってるよ、二人とも」
そう言って、ぎゅっと肩を抱いてくれたあの人が、世界で一番好きだった。
願い事
ランタンフェスに行こう、と誘われて夜の海辺へ。
今のランタンリリースは、ラプンツェルの映画みたいに空へ飛ばさない。
環境問題とか色々あって、願い事を書いた紐付きのランタンを凧のように浮かべるだけだ。
夢が叶いますように、幸せになりますように、平和でありますように。
皆の願いがオレンジ色の灯りになって、ふわっと一斉に浮き上がる。
うっかり見過ごされてしまいそうな、淡い淡い蛍のような光を精一杯高く掲げる。
きっと空の神様も、あれは何かな?と目を凝らしてくれたはずだ。
空恋
今日は年に一度しか逢えない、空の恋人たちのための日。
だから今夜は会わないし、電話もLINEもしてこないでね。
あなたが居なくて、悲しかったあの頃を私が忘れないように。
私たちが幸せに慣れ切ってしまわないように。
波音に耳を澄ませて
耳鳴りがするの…と少女が受診にきた。
この前海へ行ってから、波の音がして止まらないんです。
中耳を覗くと、なるほど波音の結晶が出来ている。
こんなに大きいのは珍しいから、よほど楽しい記憶だったのだなと私は思った。
「思い出の音に何度も何度も耳を澄ませると、結晶になってしまうことがあるので気をつけて下さいね」
そう言うと、少女は顔を赤くして
「はい」と小声で答えた。
「取った結晶を持って帰りますか?」
「お願いします」
小ぶりのジップロックに、ビーズのような結晶を入れて渡すと、少女は大事そうに鞄に仕舞って帰って行った。
夏になるとこういう患者さんが増えてくる。
青い風
朝8時。
どこかの草原で生まれた風が、青い馬になってやって来た。
夏を連れてきたよ!とトロットで。
「間に合ってます」
お断りしたら、拗ねてもわっと熱気になった。
もう出て行く気はないみたい。