#鏡の中の自分
吸血鬼は鏡に映らないらしいが、この世の存在ではないからだろうか。
なぜそんなことを考えているかと言うと、帰宅して手を洗おうとしたら、洗面台の鏡に自分が映っていなかったからだ。
思わず目をこすったら、まだ洗ってもいないのに手が濡れている。
見れば両手が真っ赤だ。
そう言えば駅からの帰り道、後ろで車の音がして、ふいにドン!と激しい衝撃を感じた。
それきり何も起こらなかったので、まっすぐ帰って来たのだが、鏡に映らないということは、どうやら私は…。
#理想郷
ひろと君と僕は図書館で、クジラに飲み込まれた男の、古いお話を見つけた。
男の名まえはヨナ。神さまの言いつけに従わず、船で逃げようとしたら嵐になった。
自分のせいだと思ったヨナが、海に飛び込むと、大きなクジラがやってきて彼を飲み込んだ。
ヨナは三日間クジラのお腹にいて、そのあと吐き出され、今度は神さまの言う通りにした。
「じゃああれも、僕らを見張ってるってこと?神さまに逆らうヤツがいたら、飲み込むために」
「うーん」
図書館前のベンチで、僕らは空いっぱいを覆う、巨大な宇宙クジラを見上げる。
「なんか見張るとか、そんな風に見えないなあ…」
あれはもっと、ゆったりしてて大きくて。
まるで方舟みたいに、僕らを遠い新しい世界へ運んでくれそうな気がする。
そう言ったら、ひろと君は
「僕も」とにっこり笑った。
#懐かしく思うこと
駅前で声をかけられた。
「ミッチー、ミッチーじゃない?」
振り返ると同時に、女性が駆け寄ってくる。
「うそ、こんな所で出会うなんて。何年ぶり?」
懐かしい!元気だった?と手を握られる。
私の名前はミチルだが、ミッチーなんて呼ぶ知り合いはいない。
満面の笑みで懐かしい!と繰り返す、女性の顔にもまるで見覚えがない。
さて困った、彼女は一体誰だろう。
#もう一つの物語
ひろと君と僕は、今日学校で習った宇宙のことを話しながら帰った。
太陽系のこと、ビッグバンのこと、宇宙は膨らみ続けていて、星たちがどんどん離れていることなど。
「でもさ…」
ひろと君は空を指差した。
「あれのこととか、ぜんぜん説明してくれなかったよね、先生は」
僕らは夕焼けの空を見上げ、ゆったりと漂う巨大な宇宙クジラを眺める。
「たぶん、大人も知らない別のお話があるんだよ」
と僕は言った。
#暗がりの中で
明かりを消してベッドに横たわり、お気に入りの睡眠催眠の動画を開く。
落ち着いた男性の声に誘導されて、心地よく寝落ち出来るので、最近毎晩聴くようになった。
「今日も一日お疲れ様でした。ここからはあなたのための時間です。一緒に眠りの旅へと出掛けましょう」
優しい音楽と共に誘導が始まり、簡単な呼吸法と、体の部位に意識を向けるボディスキャンを経て、イメージの世界へと旅立つ。
「あなたは月明かりに照らされた、美しい森の中を歩いています…」
起きているのか眠っているのか、ちょうど中間のような感じで、ふわふわと導かれてゆく。
森の小道を抜けると、小さなコテージがあって、そこには暖かな暖炉と柔らかなベッドがあって…。
いつもそう続くはずのところで、男性の声がこう言った。
「あなたは更に森の奥深く、暗い洞窟の中へと入って行きます」
あれ…?バージョンアップされたのかな?
すでに眠りに落ちかけている私は、ぼんやりとしか考えられない。
「暗がりの中には、大きな黒い獣が潜んでいます…あなたはその赤い口に向かって、一歩づつ進んで行きます…」
え…?こんなの知らない…。
少し気味悪くなり、動画を消そうと思ったが、金縛りにあったように、瞼さえ開かない。
「あなたはどんどん黒い獣に近づいて行きます…」
ヒヒッと声が嗤う。
「もういいだろ、さっさと喰われろ」
ベッドの中でピクリとも動けないまま、私は大量の汗が吹き出すのを感じた。
生臭い熱い息が、頬に触れたのだ。