「愛」の名のもとに、誰かのために自分を犠牲にする人が居たら。
そのことを知った誰かは喜ぶだろうか?
たとえば、恋人が「君のために人生の夢を諦めた」と言ったとしたら。
それは、恋人がなんと言おうとも・無意識にでも、諦める理由に愛する人を利用しているように思う。
「愛」を免罪符に自分の選択を誰かの責任にしているのではないだろうか。
誰かのためにではなく、自分のために誰かに尽くすことができたら。
「愛があれば何でもできる」ことになるだろう。
それが、見返りを求めない愛。無償の愛。
#愛があれば何でもできる?
以前は
あの時あれをしていればもっと素敵な私になれたかな
とか
あの時これをしていなければもっと理想の私になれたかな
とか、考えて落ち込んだり現実逃避していたけれど。
意識的・無意識的に関わらず、すべては自分の選択の結果だと知ってからは、そう思うことは無くなった。
寄り道、回り道、立ち止まって休憩。
どれも私の人生に必要な過程だと思えたから。
今の私は過去の私が創造した通りの私なのだ。
#後悔
辛いこと、苦しいことがあったときは山に登る。
普段は近場の慣れた山。時間があるときは遠方の高山に挑戦する。
慣れた山でも疲れているとそれなりに大変で、中腹あたりで激しく息切れすることもあって、自分の心と体、両方の体調のバロメーターにもなっている。
山頂に着いたら何も考えずに景色を眺める。
流れる風に身を任せ
無限に広がる空の雄大さを
季節によって姿を変える木々の儚さを
さえずる鳥たちの命の輝きを
ただ眺める。
そうすると世界は美しく調和していると感じる。
すべてはひとつだということを思い出す。
ああ、自分はこの世界に居ても良いのだ。
ひどく安心する。
みんなにもこの感覚を知ってほしいと思うようになった。
それはいつしかボクの夢になった。
そうして、ボクは山を降りる。
日常に戻るために。
みんなと共に生きるために。
#風に身をまかせ
私には失われた10年がある。20代のことだ。
大学受験に失敗し、フリーターになった。
25才を過ぎて一念発起し、正社員を目指していろいろな職を転々とした。
保険の外交員、コールセンター受付、サラ金の融資受付窓口…
どれも続かず、結局、ビジネススクールに通い資格を取って30代目前で就職した。
ずっと無駄な時間を過ごしたと思っていたけど、最近になってその頃の経験が役に立つことがある。
家族の保険の掛替えで営業さんのセールストークに惑わされずに最適な保険を選択できたり。
親戚の借金問題に適切な対応をアドバイスできたり。
どちらもとても感謝された。
あの20代の経験がなければ何もできずにただ傍観するだけだっただろう。
その時は意味が無いと思えることも、時間が経てば見え方が変わることもある。
きっと、人生に不要なものなどひとつも無いのだ。
#失われた時間
今日も会社でイヤなことがあった。
思い通りにいかない毎日にイライラが募る。
このまま家に帰るわけにはいかない、と気持ちを落ち着けるために駅前の居酒屋に入った。
酒とつまみを注文して黙々とグラスを傾けていると、隣の席の会話が聞こえてきた。
「子供の頃ことを思い出すと、本当にやりたい事や本当の自分がわかるらしいよ」
俺はどんな子だったかな。思い出してみる。
将来の夢はサッカー選手。
結構、本気だった。
だけど、能力の限界を知り、人間関係に挫折して。人生に妥協し諦めた。
子供の頃の自分。
世界は楽しいことで溢れ、キラキラと輝いていた。
自分が世界に愛されていることを疑いようもなく信じていた。
…大人になるとは、世界を、愛を信じられなくなることから始まるのかもしれないな。
さぁ、気づいたからには切り替えて。
子供の頃の自分を思い出し。
世界は美しく愛に溢れていることを信じてみようか。
#子供のままで