初めはただ、
流れを目に映し、
師の背を追うのみ。
それが見習い。
やがて、
言われしことを形にし、
拙きながらも務めを果たす。
それは半人前。
さらに進めば、
己の知恵を働かせ、
自ら考え、道を選ぶ。
それこそ一人前。
そして最後に至れば、
人を育て、仕事を残し、
己を越える者を生み出す。
それを名人と呼ぶのだ。
工場という場所は、なぜか「変な人の見本市」みたいになっている。
最初は「ここには変人が多いな」と思っていた。自分も昔から「変わり者」と言われてきたから、まあ同族に囲まれた感じで悪くないじゃないか、と。だが数ヶ月もすれば分かってくる。彼らは変人ではない。ただのおかしな人たちなのだ、と。
「変人」という言葉は、ある意味で褒め言葉だ。突拍子もないけれど独創性がある人、世間の常識にとらわれず自分の道を行く人。ちょっと変わっているけど、憎めないし、むしろ刺激をくれる存在。だが工場にいる人たちの多くは、その範疇には収まらない。
例えば、ネジを締める手を止めては延々と上司の悪口を垂れ流す人。昼休みになると必ず謎の健康法を語り出す人。人が困っているのを見ると妙にテンションが上がる人。これらは「個性」ではない。ただの「おかしな習性」だ。変人というより「工場奇人」とでも呼んだ方がしっくりくる。
そのことに気づいてから、逆に私は安心した。自分は彼らのように「ただおかしい」のではなく、少なくとも「変人」の領域に片足を突っ込んでいる。奇妙さの中にも筋がある、と信じられるだけマシだ。
結論を言えば、工場は変人の集まりではない。もっと単純に、世間の常識からちょっと外れた「おかしな人たち」の動物園だ。そしてその中で、「変人」として霞んでしまうどころか、むしろ相対的にまともに見えてしまう自分がいる。なんとも皮肉な話である。
あるカフェでのこと。
彼女はコーヒーを頼んだ。
彼はカフェラテを頼んだ。
店員がカップを置いた瞬間、彼女がひとこと。
「えっ、それ私のじゃない?」
彼は慌ててカップを見て、真顔で答えた。
「いや、ラテアートがハートだから、きっと君のだよ」
彼女は笑って返した。
「違うよ、私ブラックコーヒー派だもん」
ふたりは顔を見合わせて、同時にクスッ。
結局、入れ替えて飲むことになった。
そして最後に彼がぽつり。
「でも、結婚したらこうやって料理も間違えて取り合うんだろうね」
彼女はまたクスッと笑った。
「じゃあ、最初から“ふたり分け合うメニュー”にしたらいいんじゃない?」
カフェの隅で、コーヒーとラテよりも甘い空気が漂っていた。
影の遠雷
夕暮れの校庭に
遠く低く、雷が鳴る
まだ来ぬ嵐を思わせるその音は
胸の奥の影を揺さぶっていた
言えぬ言葉 届かぬ想い
笑顔の裏で 沈む孤独
仲間の声に混ざれぬ自分を
遠雷がそっと映し出す
青春とは、輝きばかりではない
不安に濡れた影が
未来を怯えながら見つめる時間
けれど、その震えこそが
やがて光を呼ぶ前触れなのかもしれない
夢は方法を呼び寄せる
月を見上げたとき
人はまだ翼さえ持っていなかった
それでも「行きたい」と願った心が
重力を超える知恵を生んだ
不可能とは
方法がまだ見つかっていない状態にすぎない
我らがすべきことは
「できる範囲」を探すことではなく
「どうすればできるか」を問うことだ
月へ至ったように
未来もまた
私たちの問いの形に従うだろう