花束を貰う生活も、自ら購入する生活もしていない。でも花屋には惹かれる。立ち止まることなく通りすぎてしまうが。
家にいるときに、生花のみずみずしい香りがふと漂う。じんわりとした幸福を感じる瞬間だ。
メリットはよく知っているのに、花屋に一歩足を踏み出す勇気が足りない。適当な用事をでっちあげて、適当な花束を買えばいいだけなのに。
いい花瓶が家にない。適当な理由で今日もまた横目で見るだけ見て帰ってきてしまった。
身分証明書の写真に写る、微妙な笑顔。
改まって撮影されるから写りが悪くなるのだ。
一週間、いや一日でいい。
良い笑顔が出ると思うから、その瞬間を撮って。
その笑顔で遺影までやるから。
ノート術系の本を読んでみると、高確率で『誰にも見せない前提で書く』のようなことが出てくる。
実際、誰にも見せない文章というのは楽だ。誤字をしてもあまり恥ずかしくないし、愚痴でもバカなことでも書ける。
ところで私がこのアプリで書き始めてから1ヶ月以上経った。言わずもがな、人に見せる前提の文章だ。多少なりとも背筋を伸ばして今日まで毎日書いている。
何度も「今日はサボるか」と思ったし、何度も「なんだこのお題なに書けってんだ」とため息をついた。
しかし不思議と窮屈ではない。右上のOKを押すときは、なんとなくすきっとする。
人に自分の書いた文章を見せるという小さな習慣。もうしばらく続けられたらいいなと半ば他人事に思う。
時刻を見るときはもっぱらデジタル表記になった。一分単位で確認できるのは精神的余裕になる。
とはいうものの、受験生の頃はアナログの腕時計を使っていた。
試験中は一分一秒が惜しい。もちろん試験前もギリギリまで参考書を目に焼き付けていた。
なのにどうしてあの頃はアナログ時計を使っていたのだろう。
思い出した。学校の先生から勧められたのが最初だったと思う。アナログ時計の方が、視覚的に残り時間がわかりやすいから。
アナログの文字盤上で、今の時刻と、終了時刻を同時に見るイメージだ。長針の離れ具合から猶予を直感的に感じ取る。
この感覚が自分にはしっくり来て、アナログ時計派だったのだ。
まだまだ受験シーズンだ。今の受験生はどんな風に時刻を見ているのだろう。
溢れる気持ちは涙になる。
プラスの気持ちでも、マイナスの気持ちでも。
嗚咽で言葉が詰まっても待っていてほしい。
泣いているのは逃げじゃない。
本気で向き合っているから。