あの人を大好きって思えば思うほど自分が嫌いになる
他人見る前に自分見ろ。
あとがき
いつも周りばっか気にしてる自分に教訓として書いてみた。最近短すぎる気がするが、よいだろう。
月野
空解釈
当然のごとく自分たちの上に存在している「空」は何色か、「青」か「水色」かそれとも「灰色」の場合もあるだろう。
どの色でどんな気持ちになるかなんて「空」からしたら知ったこっちゃないだろうし、小説やアニメでは、悲しさに「空」の色が一致していた、といったものなどをよく見るが、好き勝手に解釈され使われる「空」の気持ちにもなってあげたいものだ。その時「空」は踊りたかったらなんて考えると—-。
ふと「空」を見上げると、人間の創造力に改めて感激するのだ。
あとがき
今日は個人的に考えにくい題であった。前回までと比べるとすごく短い文章になってしまったが、ばっと考えることを表現してみた。あと振り返ってみると、物憂げな空についてじゃなくて単に空について考えてしまった。
恋愛魔法伝、なんとか書き終わりました!自分的にはあんまり面白く終わらせることができなかったと思いますが、頑張って書いてみたので是非読んでみてくれると嬉しいです!!
月野
宇宙生物
命を大切にしなければいけないということには当然反対はしようとは思わない。自分が問いを持つのは小さな命とはなにかについて。特に、”「小さな」”命という点についてである。
この題を見た深夜、なぜ自分の思考回路が止まったのか、考えてみよう。
宗教的考えは除くとし考えてみると、一般には生き物には全て命があると言ってよいだろう。ここにおいて、「全て」と言ったが、この言葉は文字通り、全てであるのだ。自分は何を言いたいのだろうと思いながらももう少し吟味してみると、ありふれてる言葉だがよく考えるととんでもない言葉であることに気づく。生き物には全て命があると言った場合には、地球上だけでは収まらない、そう銀河系をも飛び越え宇宙さえ凌駕する所にまで生き物の範囲を広げることになる。これはとんでもないことだ。地球上だけでも今もそしてこれからも生き物の数、種類は数え切れないものなのである。好奇心旺盛の人であれば、どこかしらで地球がどんなにちっぽけな存在であるかを教えてくれる動画や文章に触れ、興奮、あるいは恐怖まで感じた人がいるだろう。宇宙に他の生き物がいることは立証されていないが、自分は生物がいない方がおかしいだろ派の人間であるがゆえに、更に困惑するのだ。なにに困惑するか、予想できる生き物の数と種類である。宇宙が無限に広がっていた場合、その分だけ生き物が増えることになる。そしてそれらの生き物には当然「命」があるのだ。ここで最初に述べた、「小さな」という点について戻ってみよう。
全ての生き物といった場合には、計算不可能である莫大な量の「命」が存在することがわかった、そしてこれらの生き物はみな、体の大きさが同じであるのか、そのはずがない。そのことは奇跡の惑星地球が十分に証明済みだ。宇宙の果てでは、どんな大きさの生き物がいるだろうか、太陽をも超える生き物がいるかもしれない、はたまた電子や原子ぐらいの大きさの生き物がいるかもしれない、いや、自分たち人間には想像不可能な次元の生き物がそこに君臨しているだろう。もしかしたらその先をゆく——。それらそれぞれの生き物の優劣をつけようとしてみると、当然それが可能なわけがないのことに気づく。
ここで自分が話しているのは体の大きさであって「命」の大きさではない。更にここでいう「命」は心臓を示す事はないことにしてみよう。そうすると何が見えてくるだろうか。もはや「命」を大きさで測ろうとするのがバカらしくなってくるのだ。「命」は言ってしまえば概念だと考える。それは体の大きさに比例することなく生き物それぞれに等しく存在するのだ。先ほど言った、太陽よりも「大きい生き物」と電子くらいの「小さい生き物」この両者がどっちが良いか、ここで「大きい生き物」といってしまうのなら未熟なのかもしれない。
はたまた大きさが測れないであろう「命」まで大きさで見ようとするのなら、地球上で人間は永遠にカースト最上位の鬼として他生物の「命」を消していくことになるだろう。
あとがき
今回は頑張って今日のうちに書き終わることに成功した。自分で読んでいて何を言いたいのだろうかと思いながら必死に頭の中を表現してみた。自分も宇宙の大きさの動画をYouTubeで見てブルブル震えたことがあるな。
そんな宇宙の果てに太陽よりでかい生き物がいたとして、こんなちっぽけな自分でも同じ命(概念として)を持っていると思うとすごく自分が強くなったように思える。明日から太陽のように頑張ろう。
恋愛魔法伝の続きはがんばってかきます!本当に待っててほしいです!お願い!
月野
恋愛魔法伝
もちろんこの自分に将来結婚したい、「恋愛」してみたいという感情がないわけではない。ところで「恋愛」とはなんなのか。心が熱くなることか、その子と夢の場所へ遊びにいくことか、それ以上にもいくらでも思い浮かびそうだが、携帯の充電が切れてしまう。
いっそ原稿用紙一枚中に恋愛という2文字を書き連ねてみようか。そんなことしたってなんも変わらないの分かっているがそんなことを考えるくらいにはあまりに無責任なことばである。恋愛ということばは抽象的ではあるが、このことばよりもっと具体性に欠けたことばがある。「付き合う」。
このことばより罪なものがあろうか。自分が考える限りでは今は思い浮かばない。
「付き合う」について少し考えてみよう。ここでは、いわゆる高校生の「付き合う」について触れてみよう。なぜかって、高校生である自分の周りの人々がここでいう「付き合っている」状態にかかってしまっているからだ。「付き合っている」状態にかかってしまっていると言ったのは自分も含めほとんどの高校生が「実は私たち、俺たち付き合っているの」魔法にかかっていると考えるからだ。この魔法は強力も強力、その範囲はクラス学年を飛び越えインターネット世界にまで力を及ぼしている。ハリーポッターの世界に憧れたことがある人は多くいるだろうが、それと似たような魔法の世界がこんなにも身近に広がっているのだ。ところでなんで魔法なのか、皮肉的表現ではあるが事実に近いものであると思う。ここで先ほどの魔法高校の生徒たちのことばにもう少し耳を傾けてみよう。[以後魔生徒]
「私たち俺たち付き合っているの!」これを聴いてしまった周りの哀れな高校生たちは、「あ、そうかこの2人は付き合っているのか、じゃあこの2人に対しては今までとは異なった接し方と見方、考え方をしないといけないな。」少々堅苦しいがどこかではこの文章が浮かび上がっているだろう。これが魔法にかかってしまった状態である。たった14文字の言葉で自分達に対しての考え方を変えさせてしまう。一種の魔法と言わざるをえない。実際に自分が体験していることだが、魔法にかかるまえとかかってしまう前では、本当に見方が変わるものだ。
怖い話をしよう。とはいえ、この怪談はほとんどの人が周知していることだが。
怪談のタイトルは「浮気」。
このことばで何作もの作品が生み出されているか、考えるだけで頭痛と腹痛と持病の腰痛が響く。
魔法高校ではこの怪談が実際に現れるのだ。なにより怖いのは、この怪談が実体を持たないことである。魔生徒はさきほどの魔法をかける際それに加えてこの呪いをかけるという。それがこの「浮気」である。この呪いは恐ろしいもので呪いをかけられた側もかけた側も効果を受けてしまうのである。
この呪いについて、ある架空世界の魔生徒、魔法使い達の物語を覗いてみよう。
ここの物語の世界では浮気の呪いをかけた者たちは「カップル」と呼ばれ、かけられた側の者たちは「ヒリア」と呼ばれているのだが、なぜそう呼ばれているのかは追求しないでおこう。どちらが優れているのかなんて当然——。しかし、この世界では、「カップル」の方が憧れの存在であるとされているのだ。「カップル」は2人で生息するのだがこの2人も呪いの効果を受けている。どのような効果というとお互いがお互い以外のいわゆる「ヒリア」達と”親密”な関係になってはいけない。というものである。もう少し深掘りすると、ここで親密になってはいけない「ヒリア」というのは、「カップル」2人のうちの互いのものと同じような特徴を持つ者を言う。
この呪いの掟を破った「カップル」はたちまちに崩壊し、両者が「ヒリア」に変化する、というのである。ここで注目したいのが、”親密”になってしまう「ヒリア」たちの存在である。「ヒリア」たちにかけられる呪いの効果はハイリスクハイリターンの呪いと言える。それは端的に言うと、新たな「カップル」になれるかもしれないチャンスを秘めているが、失敗するとなぜか社会的な悪、恥、となってしまうことだ。しかし「カップル」の方が憧れの存在であるこの世界では、「ヒリア」達はこぞって「カップル」になりたがるのだ。ああ恐ろしい。なにが恐ろしいかって、それは根拠もないのに「カップル」の方が優れていると信じて疑わない「ヒリア」たちである。それに加え、ずっと言ってきたこれらの呪いというものも、この世界の住民が勝手に創り出したものだからだ。
なんて恐ろしい物語であろうか。「物語」という表現にずっと疑問に思っていた人もいるだろうが、そう、これはもはや物語ではない。この自分が住んでいる地球でも当たり前のように見られる光景になっている。ではなぜ物語と言ったのか、もちろん皮肉的に言いたいという点もあったが、自分が考えるのは、「恋愛」のいうものがどれだけ規模の大きい言葉であり、具体性に欠けているのか、それを表現したかったからである。人間というものは実体を持たない精神の網の中で生活している時間も極めて大きいと言えるだろう。それは「恋愛」だけではない、神とよばれるものの存在であったり、様々であろう。はたしてこれらの精神の網の中という世界は人間以外の生き物にあるのか。昆虫などが、メスを惹くために求愛行動をするといった記事を見たことがあるが、あれらは人間の「恋愛」と同じ次元軸で語っていいのだろうか、そうは思わない。複雑な精神の網を経由しているとは言えないと考えるからだ。人間にしか存在しえない「恋愛」というもの、そしてその言葉も人間では想像不可能な領域にまで広がっていて、かつ普遍的である。これは一体何を示すのか。「I love you 」という言葉を聴き喜び、舞っている我々は未だ物語の中の住民かも
あとがき
魔法高校生活の二年間が終わりそうになっていわゆる「恋愛」に溢れてる生活になってしまった。つらい。
クラスの中でもカップルカップルばっかで悲しくなる。
自分に自信がないのがダメなんだ!とよく友達に言われるが自信だけでどうにかなるものか。否、うん否。
ところで「恋愛」という言葉というのはいったいどういったものか。それについて考えてみた。あと持病の腰痛は全然嘘です。めっちゃ元気です。
頑張って自分の思ったこと書いていきます!よろしくおねがいします!あと続きも多分書きます。是非。
[追記あとがき]
なんとか書き終わった。書いている途中、自分が惨めになり宇宙へ飛んでいきそうな気がした。恋愛というものは生物としての本能と言えば自分の考えたことはパーだが、本能という言葉で表し切れるのか。本能だとしたらなぜ恋愛というものを選ぶのか、考えても考えても答えが浮かび上がらない。
文としてぐちゃぐちゃで何言ってるか分からないと思いますが、自分と同じような考え方を持つ人がいたら良いなと思います!是非読んでくれたら嬉しいです!
月野
自分がl love you という言葉を聴く時なんて塾で英文読 んでる時だけであり、その時考えることなんてそれが第3 文型だってことだけだ。
いつか英文に出てきた時誰か思い浮かぶようになる といいな。
あとがき2
なんか泣きそうになりました。あと結局自分もまだ物語の住民だということに気づきました。