フィクションのifストーリーには心躍る。
現実のたらればには辟易する。
他人事の嘘と可能性は娯楽になり得る。
自分にあった可能性と塗り固めた嘘は、苦痛となり心を縛りつける。
嘘は眺めるに限る。
そんなことを嘘つきの自分は思ったりしたのでした。
極貧生活の幼少時代、電気とガスが止められて、夜は蝋燭の灯火だけが私に安心をもたらしてくれました。
何も娯楽は与えられず、せめて時間を潰そうと考え、勉強をしようとすれば、親に自分に対する当てつけかと怒鳴られ、自分が何をどうすれば良いのかわかりませんでした。
空腹と暗闇。
先のことなど考えられず虚無的でした。
あの感覚を絶望と呼ぶのだと思います。
家にも学校にも居場所はありませんでした。
普通という水準を満たしていない人間には学校という小さな社会に居場所はありません。
偏見と侮蔑と差別は今でも当たり前のようにありますが、これらがなくなることは、この先もきっとないでしょう。
家と学校という小さく大きな現実から逃れるために、ほとんど利用されてない寂れた図書館が私の居場所になりました。
現実を忘れるために本に逃げました。
ある時、一冊の本との出会いが私の人生を変えました。
本との出会いが私の寂しさを埋めてくれました。
生きるための知識と考える力を私に与えてくれました。
多くの物理的な暗がりはどうにかすることができますが、知識の暗がりは自分が暗いという判断さえも下すことはできません。
知識と思考は社会の暗がりを照らしてくれます。
それは生きる希望となります。
自分がどうすれば良いのかわからない時、苦しい時に、もしよければ本を頼ってみてください。
同じ悩みをどうにかしたいと考えた著者からのメッセージはあなたの力になってくれますよ。
コーヒーよりも紅茶派です。
紅茶は不安を和らげてくれます。
良質な紅茶は名の通り濃い紅色です。
香りと味も違います。
大量生産のティーパック製品と飲み比べると違いの大きさに感動をもたらしてくれることでしょう。
コーヒーも美味しいのですが気分が落ち込んだ時には紅茶をお勧めします。
作業前にはコーヒーです。
のんびりしたい時には緑茶をお勧めします。
好きだ。
愛してる。
愛情を何度も言葉にするほどに愛が薄まるのかもしれません。
ですが適切に言葉にすれば愛しさが深まるものだと思います。
子供の頃は友達がいたと自分は言えるのだろうか。
幼い頃から、友情というものに懐疑的で、対等というものとは無縁だったように思います。
自分にとっては幻想的な友達という言葉を、無邪気に笑いながら声に出せるあなたを見るたびに、人の美しさと自分の醜さを再認識させられ、ひどく落ち込みながらも、まだ世界に絶望せず、人に希望を見出せるのです。
思い返せば子供の頃から自分には友達がいません。
友達。
甘美な響きを持つ言葉に焦がれた時期もありました。
今では、その言葉に心も動かないのです。
友がいるあなた。
友がいない自分。
同じ人間のはずなのに、同じ生き物に思えず、貼り付けた嫌な笑顔の下では不安と焦燥が渦巻いています。
疑心暗鬼ゆえに人を信じることができない自分には友達ができることは、この先もきっとないでしょう。