あの日の温もり
腕の中の小さな赤子はすやすやと眠っている。既に親のないこの子を引き取ったのは、次へ繋げるため。この子は私の跡を継いでくれることだろう。ずっと生まれなかったジャミールの民、修復師の技術を継ぐものが今この腕の中で、全てを預け安心し切って眠っている。
どうか、この命が長く続きますように。そしてこの子にも暖かな温もりがいつか、今はまだこの小さな腕の中にありますように。
腕の中にあるのは、十三年前まで私を温かく見守り抱きしめてくれたあの手首にあったバングル。その冷たく硬い感触を抱きしめた。その冷たさと喪った悲しみに涙が出てきた。そのうち金属は私の体温を奪い熱を帯びる。どうか、私の愛子をお守りください。この手の中のバングルをその愛し子の腕へと通してやる。手の中で温めたそれは、愛し子の二の腕にピッタリとおさまった。
「ムウ様、これは?」
「これは私の師、シオンの遺品です。見事な意匠でしよう? シオンの作ったものです。おまえを守ってくれることでしょう」
愛し子はその腕のバングルを眺めて、目を輝かせて笑った。
大羊→中羊→子羊へ
時よ止まれと、何度思ったことか。
仲間がひとりまたひとりと倒れていく、聖戦の終盤。
今動けるのは自分だけなのか。まだ誰か生きてはいないのか。シオンは失血と上がった息の中、淡く小宇宙を巡らせた。
希望はもうないのか!
「シオン?」
肩に手を置き声をかけてきたのは弟子のムウ。安楽椅子に座ったまま、揺れに任せて眠っていたようだ。
「あぁ、寝ていたのか」
ムウに知られないよう額の汗を拭ったシオンは、平静を装った顔で椅子から立つと、お茶を淹れてくれた小さな弟子の頭を撫でた。
「冷めないうちにどうぞ」
テーブルの上の湯呑みにシオンは微笑んだ。
「ありがとう、ムウ。して、私は何か寝言でも言っていたのかな?」
聞くべきではなかったのかもしれない。だが、何かを叫んだような気がして、シオンは湯呑みのある席に着くなり、小さな弟子に問いかけていた。お盆で口元を隠しシオンをじっと見る藤色の目は動揺も何も見せない。
「そうか、変なことを聞いて悪かった」
「いえ、寝言というか……とても苦しそうだったのはわかりました」
ここで初めて弟子の動揺が目に現れた。シオンは手元に湯呑みを寄せて両手で包むと、その温度に短く息をついた。
「すまぬな、怖がらせてしまったか」
目の前にもう一つ湯呑み。お盆を隅に置き、椅子に登るように座ると、その座面に正座した弟子は、言いにくそうにしていたがすぐシオンを正面から見据えて問いかけていた。
「あの……アルバフィカとはどなたですか?」
シオンは意外な顔をしていた。その名を呼んでいたかと。
「お前には前聖戦の黄金聖闘士の話をしたことがなかったな」
そう言われてコクっと頷くムウは、とても興味津々と目を輝かせていた。
「私は何も知りません。色々と教えて欲しいですが、シオンにとってそれは辛かったり、嫌な記憶だったりしませんか?」
「嫌なものか。よし、いいだろう。今日は前聖戦時の黄金聖闘士の話をしようか」
本当は身を乗り出して聞きたいのを、体をうずうずとさせて頷く弟子はとても可愛らしかった。
「私はお前と同じ牡羊座、前聖戦では一番に仲間の死を看取ったのだ。それは私が十八の時の話だ」
あの時、どれだけ動揺したか。勤めて冷静にと心を落ち着かせた。懐かしく辛い思い出を胸にしまいこみ、ただあったことだけを話していくシオンは、
「彼はな、とても美しい人だったよ。ふふっ、それを本人の前で言うといつも叱られたな」
シオンは思い出して笑い、ムウは美しい人と聞いてすぐ魚座の彼を思い出していた。
「そうだな、アフロディーテもとても綺麗な子だが、今のあの子よりも彼はずっと年上だ。可愛らしいと言うよりは美しいと言えよう」
シオンはもう二〇〇年以上の月日を思い出しながらくすくすと笑った。
「ムウよ、少し長い話になるが、良いか?」
小さな弟子は椅子の上で正座したまま背筋を伸ばして『はい』と返事をしていた。
「アルバフィカは魚座の黄金聖闘士で、見た目の美しさは元より、とても逞しく強い人だったんだ」
弟子はコクっと頷きながら師の話を聞いている。シオンはそんな様子に口元を綻ばせて話を続けた。