終わらせないで
なんていい気分。
このままでいい、このまま終わらせないで。
ピンクや金色や水色にキラキラと彩られた世界で
主人公がモノローグを呟いている。
わかっている、わかっている、こういうのはお約束だ。
なんでだ。
わかっていても無料の電子漫画に無粋に突っ込んでしまった。
いやいやいや、本当はわかってる。
主人公がパーチーでイケメンと踊り、その時間が幸せなのだと。
シンデレラのように終わりが来ないでほしいと。
だからダンスの曲を終わらせないでと願ってる。
わかってる、わかってるんだ。
ただまあ性分として、
そのまま踊り続けてたら疲労で死ぬとか
楽器弾いてる奴らにも休ませてやれよとか、
舞踏会は明け方まで続くのが慣例なのにそれを知らんのかとか、
水分補給しないと倒れるとか、そういうリスクを一切考えずに
状況に陶酔できる理由がわからない。
こいうのは作者が無限のエネルギーを放ち、
無敵の体力してるから疲れるという概念を知らないのか、
ロマンチックは麻薬成分故一切の疲労から解放されるとか、
そういうもんなんだろうか。
この手のロマンチックを見ると、自分もこうなりたいと思う前に
この舞踏会何時まで続き、どのくらい踊り続けるもんなんだろうと、
ロマンチックじゃないことが頭にちらついて話に集中できない。
別に女の漫画を貶めてるわけじゃない。
特撮を見ればヒーローが必殺のポーズ決めてる時に
悪役なのに攻撃しないのはなんでだろうとか、
ヒーローがエネルギーチャージしてる間、
どうして律儀に待ってやるんだとか、
気になって気になって話に没頭できない。
子供の頃はつい口に出してしまい
周りから反感を買った。
それが空気が読めない発言だと知るのは20年も後のことだった。
そうか、これは駄目なのか。
これはこういうものとして雰囲気とやらを味わい、
なんも考えずに楽しむスキルを得たくて
型通りが羅列しているラノベや漫画を読んでみるが、
頭の中が冷めてしまい没頭できない。
いつもこうだ。
みんなが盛り上がっててもそこに入れず
少し離れた位置から眺めている感覚。
それが周りにバレた時の表情、凍る空気。
忘れたいけど忘れられない。
楽しんでるふりだ。みんなに話を合わせろ。
コイツ、チガウとバレるのが怖くて、楽しいの演技が張り付いた。
おかげで感じの良い人への擬態はバッチリだ。
パターン通りの薄い会話はどうにでもこなせるが、
それ以上が出来ない。
それがバレるのが怖い。
場に馴染めてない。
日本でこれは禁忌に等しい。
ウチとソトの概念が強い日本では、ウチに入らないことは
死を意味する。
この場合の死とは生命ではなく社会的死だ。
いないものとして扱われる。
その恐ろしさを学生の頃に味わった身としては、
もう二度とあんな経験をしたくない。
だから擬態を覚えた。
でも本当は知りたい。
みんながどうやって何も考えずに楽しめてるのかを。
窓の外で何か動いた。
目をやると猫の尻尾だ。
ということはもうすぐ帰ってくるんだな。
隣の部屋のやつが餌をやってる地域猫が遊びにきたらしい。
この猫は、自分が偽善者と見抜いているのか
声をかけてもすぐ逃げていく。
しかし、隣の部屋のやつには懐いているらしく、
どこからか気配を察知して、
ドアが開く音がする前に窓辺にスタンバイして待っていることが多い。
壁が薄いから音も筒抜けだ。
よく猫に美味いか?もっといい餌の方がいいよなあと
呟いていたり、
お前の幸せなんだろうなあ。と話しかけたりしている。
たまに凝った自炊をしているらしく、
冷凍食品ではあり得ない焦げたバターの匂いがしたり、
インドになったみたいなレトルトじゃないスパイスの匂いがしている。
一度出かける時間が重なったことがあった。
カバンに何かのピンバッジを付けていた。
見覚えがあった。特撮系映画のエンブレムだ。
あ、俺とは合わないタイプだ。
そう思ったが、にこやかにおはようございますと挨拶し、
会釈をして立ち去った。
それだけだ。
数分もしないうちに足音が部屋の前を通り過ぎ、
隣の部屋のドアが開く。
にゃーん。
猫が鳴いた。
いいなあ、うらやましいなあ。
猫の話がしたい。
天気の話がしたい。
うまそうな匂いしてるけど何作ってんのとか、
そのピンバッジ気になったんだけど作品名何?とか知ってるけど聞いてみたい。
でも無理なんだ。
少し深い雑談をしたら擬態の皮は剥がれてしまう。
あ、こいつ少しおかしいなとバレてしまう。
あの空気。
怖くて怖くて忘れられない。
目の前のスマホを叩いて次の漫画を選ぶ。
なんとなくだ、なんとなく空気に飲まれて良いなあと思う感覚を身につけろ。
ひとつコツを掴めば次もきっとうまくいく。
練習しよう。人になるために。
そして次の漫画を読み始め、
生まれ変わって人生2周目だとすると、
主人公の中身は中年なんではということが気になり出して集中出来ない。
なんでこうなんだろうなあ。
終わらせない、諦めないぞ。
漫画のコメントを読んでいると、漫画にはまり込んで
主人公を応援している奴がいる。
いいなあ、うらやましいなあ。
何やるとそうなれるんだろう。
めげずに次の漫画を選んだ。
愛情
これも愛情なんだよ。好きだから構いたくなるんだよ。
大嫌いな言葉だ。
小さい頃から自分は兄のオモチャだった。
自分が本を読んでいると取り上げて本を踏みつける。
テレビを見ていると耳元で大声で叫ぶ。
映画だったりするとネタバラシも加わる。
夜風呂に入ってると電気を消す。トイレでも構わず消す。
ぬいぐるみを窓から捨てる。
育てていた花を抜く。
捕まえて観察していた虫を逃す。
兄はその度に泣いたり怒ったり自分を見て笑っていた。
そしてあなたのことが好きだからやるんだよ、と諭される。
好意だから、愛情表現だから、あなたに相手をして欲しいから。
だから許してあげなさい。
そう言われるのが大嫌いだった。
親の後ろで許されて当然という顔をしている兄も大嫌いだった。
家の中で兄は王子様で、なんでも許されたし、
許さないと執念深い、心が狭い、捻じ曲がっていると叱られた。
家の中には味方がいないことを早々に学んだ。
自分はやがて反応しない、感情を出さない、家族から背中を向けることを覚えた。
背を向けてるのに、ウザ絡みしてくる兄と、
兄の取り巻きとして援護する妹を無視しながら、
早く大人になりたい、ここを出たいと思いながら
勉強をしていた。
勉強して勉強して勉強して。
第一志望に落ちた。
そこに受からなければ学費を出さないと親に宣言されていたので、
奨学金を借りて第二志望の大学に入り、家を出た。
第二志望の学校は遠く離れた場所にあり、
安くて小さな部屋を借りた。
初めての一人ぐらし、家の中に自分しかいない。
安堵感で爆睡した。
そして社会人になった。
今家に通ってくる猫がいる。
ボロアパート故ペット可なのだが、いかんせん狭い。
こんな狭いとこに閉じ込めて飼うのは可哀想で、
しかし可愛いので構ってしまう。
一度捕まえて避妊手術をしてワクチンを打った。
それでも遊びに来てくれた。
ノミ取り薬は定期的に首に落としてやり、
体は来るたびに拭く。意外と嫌がらず好きにさせてくれる。
部屋の中に餌スペースとトイレを用意してやると、
わりと簡単に覚えてくれた。
今日も家に帰ると窓の外から開けろと鳴くので入れてやる。
飯の前に足をふけ、と抱き上げて濡れたタオルで足を拭く。
ついでに体全体も拭く。
ゴシゴシと体を揺らしている間、猫は気持ちよさそうに
目を瞑って喉を鳴らす。
自分を信じて身を任せてくれる猫を眺めて思う。
俺はこいつを大きな音で驚かせて楽しいと思わないし、
期待させてがっかりすることもさせたくない。
イタズラしたいとも思わない。
餌を取り上げることなんてとんでもない。
そばにいてかわいいな、暖かいな、
もっと居心地のいい場所用意してやれたらいいのにと思う。
怪我をしてないから心配になる。
病気になってないか心配にる
雨の日に来ないと寒くはないか気になる。
美味いもん食わせてやりたい。
広いところに引っ越せるように金を貯めている。
一緒に着いてきてくれるか不安になる。
時々、涙がこぼれそうになる。
自分と家族では愛情の形が違ったんだ。
だから受け取れなかった。
どれほど嫌だと言っても、理由を説明しても、
言葉を尽くしても、態度で示しても向こうが変わることはなかった。
これは愛情なの、わからないお前がおかしい。
受け取れないお前が捻じ曲がってる。
お前が悪い。
ずっとそう言われてきたからわからなかった。
自分と家族では愛情の形が違ったんだ。
そのことが時々辛い。
にゃあと猫がなく。
メシだな。
涙を拭いてカリカリを皿に盛った。
微熱
喉が痛いぞ。関節も痛い。
12月間近なのに微妙な気温だ。
マジで寒くなるのか現状維持したいのかはっきりしろ。
夕方に嫌な予感がして仕事帰りにスーパーに寄った。
卵、豚バラ、ニラ、ネギ、キムチに豆腐、
きのこ類複数に鍋用カット野菜。
液体味噌と麺つゆ、カップうどん、何故か餅。
ヨーグルトに蜂蜜、バニラアイス。
水も用意しておくか。2リットル。
ポカリは保険だ、一本で良い。
あとみかんとりんごを二つずつ、黄桃の缶詰をカゴに入れた。
ゼリー飲料も欲しかったが、既にカゴが重かったのでやめておいた。
確か飯は何個かまとめて冷凍してあったはずだ。
風邪薬は…帰り道にドラッグストアがねえ。
遠回りする体力はない。
去年風邪引いた時の残りがどこかにあることを祈ろう。
玄関のドアを開ける。
エアコンとこたつをつけてから冷凍庫にアイスをぶち込む。
冷凍庫にメシの塊が3つあることを確認した。
台所の引き出しの奥に金色の箱を見つけた。
中を見ると半分ほど残っており、よっしゃとガッツポーズをする。
熱を測って見たら37.2度。微妙な熱だ。
しかし、幸い今日は金曜だ。
風邪よ、お前と向かい合う準備は万端だ。
貴様を制圧してやろう!
ククク、まずは風呂だ。
風呂に湯を溜める。
溜めている間にネギとニラを切る。豚バラも切る。
りんごもひとつ剥いてしまおう。半分は普通に剥いて、ふたつうさぎさんにしてみた。
病気になると気が弱る。癒しは必要。セルフケアというやつだ。
全部やるのは面倒なので半分だけうさぎさん。
色のバランスがいいじゃないか。
砂糖水に潜らせようか迷ったが風呂が沸いたのでやめにして、全てにラップをかけて、服を脱いだ。
風邪の時に風呂はいかん?昔の因習は捨てろ。
何故風邪の時に風呂がダメと言われた理由を考えろ。
風邪引いてんのに風呂入ったあと保温もせずにだらけていたらそりゃ悪化するわ。
昔の家屋は寒く、体は冷えやすかった。
だが今は違う!
風呂でゆっくり温まり、ついでに保湿、深呼吸する。
血行を良くしろ、体の隅々まで酸素と栄養を送るんだ。
風邪という不法占拠者と戦う力を行き渡らせろ。
スマホにタイマーを仕掛けておいた。
ぬるめの風呂に30分浸かり、ほこほこになったら
髪もドライヤーで一気に乾かす。
多少高くてもダイソン買っておいて良かった。
爆速で髪が乾く。
首を冷やしたくないからタオルを巻いた。
フリースを着込んで、靴下も履いた。
さて、準備は万端だ。
カセットコンロをこたつの上に設置、
水を張った片手鍋に液体味噌を入れる。
めんつゆと迷ったが、風邪引いてる時はビタミンとタンパク質だ。
鍋奉行はいないので、野菜と豆腐全部ぶち込んで火をつける。
あ、メシを解凍するの忘れてた。
餅でいいか。よくぞ餅をカゴに入れたな、えらいぞ自分。
一人用の琺瑯の鍋なんて簡単に熱が回る。
ぐつぐつ言い始めたからネギとニラの絡まった豆腐、カット野菜を
どんぶりに入れて、開いたところに豚バラを突っ込んでおく。
ほふほふと食う。うん、美味い。具沢山な味噌汁だ。
ほかっとしてきた。味噌にして良かった。
薄い肉はすぐに火が通る。ここでキムチだ。
肉の旨みとキムチの旨み。
くう、美味い。鼻詰まりでも美味い。
ここで餅と卵を入れておく。
世間では半熟正義だが、俺は硬くなって味が沁みた白身が好きだ。
だから早めに入れておく。
野菜を食う、豆腐を食う、肉を食うて絡まってきた餅を食う。みんな味噌とキムチの味に染まって、野菜の甘みと肉の出汁が効いてて実にうめえ。
固い白身に、ほんのり芯が半生の卵をもぐもぐ食べる。
食べ応えあって満足だ。
鍋に残った奴らは明日メシを足しておじやにしよう。
台所に避難させる。
ほかほかのからだにほかほかの鍋を取り込み、もう無敵だ。
薬を飲んで、口直しにリンゴをひとつ齧る。
すでに少し茶色くなっていたが味に変わりはない。
うさぎさんは毛が生え変わったんだ。そういうことにしておこう。
食いきれないので冷蔵庫に仕舞った。
さて、乾燥は敵だ。
保湿機なんて気の利いたものはないので、
首に巻いていたタオルを水に浸し軽く絞る。
エアコンの近くにハンガーを設置しぶら下げる。
これで十分だ。
枕元には水とポカリ。
こたつの電源を切って、エアコンとライトにタイマーを仕掛ける。
あとはスマホタイム。
ベットの中で首まで布団を巻き込んで、
南国の旅動画を見る。
波の音が気持ちいい。
うとうとし始めた頃に部屋が暗くなった。
ふふふ、風邪よ来るならきやがれ。
夜中に熱が上がって水分を欲すれば水がある。
吐いてしまってもポカリで即チャージが出来る。
喉を痛めたらアイスと蜂蜜が癒してくれる。
お腹の調子はヨーグルトで回復だ。
気力がなければカップうどんに湯を注げば良いし、
うさぎリンゴさんは冷蔵庫に待機している。
伏兵としてみかんもある。ふたつもある。
黄桃まであるんだぞ!
ふふふ、死角などない。しかくなど…。
なぜかうきうきと眠りに着いた。
茶色くて耳が赤いうさぎさんの背中に乗って
宇宙を旅する夢を見た。
何やってんだろうなあ…。
すっきりとした朝を迎え、特に必要のなかった水とポカリを眺める。
一人暮らしの病はキツい。
心細くなるし、誰かがお世話してくれることもない。
弱ってる時に食い物もないとみじめになる。
一人暮らし一年目に学んだ教訓だ。
あと、久しぶりの風邪に非日常を感じてはしゃいだ。
だからって買いすぎだろう。
半端に使った食材はまだまだ余ってる。
一人暮らしの冷蔵庫では溢れる。
何故だ、何故りんごとみかんを二つも買ってんだ。
カット野菜買うならネギも切ったのを買えば良いだろう。
豚バラもキムチもでかいやつ買うから
これだけで冷蔵庫の半分は埋まる。
夏ではないから外に置いておいても問題ないだろうが、
悪くして捨てるのは勿体無い。
あー、まあ、とりあえず。
レンジで飯をチンしておじやを作った。
今日は溶き卵を掛け回して半熟にしてみた。
あーうめえ。風邪引いてなくてもうめえ。
こんなに沢山の具材まとめて食うのいつぶりだっけ。
贅沢だ、贅沢で美味え。
風邪の時くらい贅沢して良い。
念の為一日安静にしておいた。
ダラダラとスマホをいじり、眠くなったら寝た。
豚バラは生姜焼きにした。
晩飯は麺つゆ使って豚しゃぶだ。
味変を計画した自分を褒めてやりたい。
夜の風呂上がりに
バニラアイスへヨーグルトと蜂蜜を掛けて食うて見たら
昨日の自分偉い、すごく偉い。
ブラボーブラボーブラーヴォー!
ひたすらに己を褒める自分に違和感を感じ、
もう一度熱を測ってみた。
37.5度だ。
髪を爆速で乾かし、昨日かけたまま忘れていたタオルを
もう一度濡らしてハンガーにかけて薬飲んで寝た。
洗濯は明日しよう。
太陽の下で
あったけえなあ。
カフェの窓際でミルクティーを飲みながら、太陽の恩恵に感謝する。
気候変動の影響か、冬一歩手前のはずなのに、
極端な暖かさになったり、いきなり冷え込んだり、
躁鬱病のようなアップダウンを日々繰り返しており、
本日の気温を確かめず、うっかり薄いパーカーで街に繰り出し、
寒さに耐えかねてカフェに避難した。
ガラスに外気を遮断され空調が程よく温めてくれる空間で、
ぬくぬくと日差しを浴びる。
ああ、ありがたい。ガラスを量産できるようにしてくれた人達ありがとう。
あんたらは儲けのためだったかもしれないけど、
おかげで凍えずに日向ぼっこができる。
自分、中世に生まれてたら死んでたわ。
ミルクティーに砂糖を追加する。
甘い。
自分のような貧民一歩手前の労働者でも甘味の恩恵に預かれるなんて恵まれてる。
自分、ここにいたら、死ぬ。
昨日見たゲーム実況の中世世界と、
それを眺めて中世世界の貧しさや汚さに
引いていたことを思い出しながら、ぼんやりと外を見る。
空は綺麗に晴れており、
乱れた寒暖差のせいか赤くなるタイミングに
悩んだかのような微妙な色の街路樹が並んでいる。
綺麗な赤でもなく、黄色でもなく、枯れて茶にもなってない微妙な色だ。
それでもそれなりに不自然に見えないから自然は偉い。
ゲームの中は綺麗な紅葉だった。
イチョウ並木は黄色く染まり、紅葉は赤い。
人が見て8割が美しいと思う景色が
完璧な設計でそこにあり、それは綺麗だと感じた。
ゲームは楽だ。実況を見るのはもっと楽だ。
見てるだけで進んでいくし、安全な場所で汚かったり危険だったりするところに行ける。
現実はそうじゃない。
少し間違えただけで死にそうに寒いし、
期待通りの紅葉は見られない。
でもまあ悪くない。
お日様はぬくいし、ミルクティーは甘い。
薄着で死にそうになってた体はガラスと空調で守られてる。
自分、アウトドアしたら死ぬかもしれん。
小学校のキャンプ以降自然というものに触れる機会もないまま大人になり、情報の海の中で生きているのに
うっかり薄着で外に出て死にそうになる人間に、
準備してても死ぬような自然の厳しさは向いてない。
自然の厳しさを知らないまま生きている。
見積もりが甘くても生きていける。
そのことをありがてえと思いながら、ここを出たらグレイのコートを買おうと決めていた。
セーター
寒くなってきた。
冬服を取り出し並べてみる。
カーキーのカーディガン、黒のトレーナー、
グレイの裏起毛シャツ、グレイのダッフルコート、グレイのダウンコート、グレイのチェックパンツ、グレイのセーター。
気が付いた。とにかくグレイが多い。
自分はこんなにグレイが好きだったろうか問うてみたが、別にそんなに好きじゃない。
なぜこんなにグレイばかり増えたのだろうか記憶を探ってみる。
“気温で上着を変えましょう”
“毎日違う色を身にまとい、いつでも新しい自分でいましょう”
“パーソナルカラーは大事です。わからないなら診断士に依頼してみてもらいましょう”
“身だしなみはとても大切です、服のメンテナンスをしましょう”
“自分はどんな人かを考え、どう見られたいのか意識しましょう”
“姿勢は?”
“こんなにみっともない姿をしていませんか?”
“恥ずかしくない姿になりましょう”
おおおおお、思い出した。
どこだったろう、何がきっかけだったろう。
そうだ、SNSだ。
なんとなくみてた時に間違えていいねをタップしたら、
やたらとファッションの記事が流れてくるようになり、
記事をなんとなく読んでるうちに、
インパクトのある写真やイラストを見るうちに。
今まで何も考えてなかった自分が大罪人みたいに感じるようになり、
慌てて服を買いに行った。
パーソナルカラー診断士とやらにも合う色を探してもらった。自分はブルベの冬らしい。
ブルベ冬さんに似合う色はこれです!と並べられた色を見て、一つも好きじゃないことに気がついた。
しかし、自分の好きより似合うことが大事だと
並べられた色や薦められる模様の服を買った。
沢山買った。薄給が飛んだ。
そしてスキンケア用品も買った。
日焼け止めも買った。
靴も買い直した。
全部店の人に相談して決めた。
そうやって買い揃えたものを眺めて改めて気が付いた。
自分、こいつらが全然好きじゃない。
しかし、自分の好きより似合うことが大事だと気が付いたじゃないか。
努力した。
毎日まわりを見渡して研究した。
自分には何が似合うのか、周りはどんな服を着ているのか、髪型は、髪質は、眉の形は。
どうすれば馴染むのか。
研究して気が付いた。
これ、全然面白くないな。
普通、服を買い揃えることも着飾ることも楽しいものらしい。
SNSのキラキラは好きなことを楽しんでるから輝いてるようだが、自分全然楽しくない。
ビルのガラスに映った自分を眺めると、多分前より周りに馴染んで小洒落た自分なのだろう。
でもこれが本当に自分か?と自分に問うてみたら、
偽物だ、という答えが返ってきた。
それでも頑張った。
アホ毛を許すな、爪を揃えて磨け。
今日はオリーブのコート、足元はベージュ。
今日は差し色にオレンジのボタンが付いた黒シャツ。
白は汚れやすい、気を遣え。
柄物も取り入れろ、靴を磨け、磨き方にも気を配れ。
周りの評判は上がった。
ニコニコしてもらえる人が増え、会話も増えた。
世界がうまく回り始めた手応えを感じ、
身につけているアイテムの何もかもが全然好きじゃない事に蓋をした。
毎日毎晩、外から見える自分のことを考えた。
今日はこれを着る、明日ははこれを着る。
眉を切り揃えているか、鼻の下の産毛は剃ってあるか、
毛穴は?日焼けは?
ひたすら考えて、毎日を過ごし、季節の変わり目を迎えた。
新しく服を買い直す時、ふとグレイのセーターが目に入った。
自分には似合わない系統、イエベ春向きのグレイ。
あ、この色が好きだ。
そう思ったら全てがどうでも良くなった。
ひたすらグレイと黒い服を買った。たまに白も買った。
色を無視するように白黒グレイで全てを揃えた。
爪は切ろう、肌も整えよう。
髪の毛も気を遣い、眉毛指毛もチェックしよう。
毛穴も引き締めよう、ムダ毛は脱毛しよう。
形が崩れてきた服は着ない。靴もシーンごとに取り替える。
体型を維持して筋肉を付ける。
だけどもう好きでもない色を選びたくない。
その思いで服以外をキメにキメた。
買い込んだ服は捨てた。
一気に灰色になった自分に誰も何も聞かなかった。
周りの態度も変わらなかった。
なんだ、何着てても良いんじゃん。
憑き物が落ちた。
あー、思い出した。
モノトーンでワンシーズン過ごしたらスッキリしたのか、
春には春っぽい緑のシャツに自然と手が伸びた。
夏には濃い青のパンツを買った。
秋には煉瓦色のベストを初めて買ってみた。
季節を感じる色を手に取るのは楽しかった。
そして思い出した。
この時は好きじゃないものを選ぶのがとにかく楽しくなかった。
楽しくないのに金が飛び、好きじゃない事に時間と頭を使い、嬉しくないのに褒められるのがストレスだった。
ふとスマホを開き、去年写真を探してみる。
あった。飲み会の写真だ。
好きじゃない色を身につけた、悪くない自分がそこにいる。
でもなあ。
お前、悪くないけど好きじゃねえんだわ。
グレイのセーターに触れる。
自分には似合わない、イエベ春に似合うグレイ。
お前のこと好きだわ。
セーターを抱きしめた。
合う合わないじゃない、お前が好きなんだよ。
とてもとても幸せになれた。