「香水」
棚に香水が置いてある。
手に取る。水色とピンクの淡いグラデーション。
どうしても、欲しかった、あの香り。
君のことを、思い出した。
君は、いつも、あの香りを身にまとっていた。
歩くときも、走るときも、笑うときも。
なにもないようなときにも。
だから、あの香りが鼻をかすめば、君だ、と分かるようになっていた。
いつか、君に訊いた。
『どうして、いつもその香水を付けてるの?』
君は、ちょっと困ったように、でも、嬉しそうに答えた。
『綺麗だから』
そのまま、押さえきれないように、笑いだした。楽しそうに。
何が綺麗なのか、何が面白いのか、僕には分からなかった。
それから、君がいなくなって、どのくらいの時間がたったのだろうか。
適当にショッピングモールに入った。
前のように、同行者は居ない。
ボーッとしたまま服を見て、買い物を済ませる。
本を見て、時計を見て、カフェに入って。
でも。
なにかが足りない。
『ねぇ、次はあそこに行こうよ!』
嬉しそうに店を指し、グイグイと腕を引っ張っていった君。
笑いながら、楽しそうで。
迷惑だったけど。だけど。
でも、それが「楽しかった」と思ってしまう僕がいる。
いつの間にか、香水の店の前にいた。
なかに入り、香水を手に取る。
この中に、君の好きだった香水もあるのかも、しれない。
「どうぞお試しください」
そう看板に書かれている。
手に取った香水をワンプッシュする。
使わない、知らない香りが鼻をくぐった。
他の香水を試す。
色々な香水の香りが混じり合い、変な匂いへと変わる。
どうしても、見つけたかった。
ショッピングモールを出る。
結局、見つけることはできなかった。
君は、どこであの香水を見つけていたんだろうな。
どうして、それがほしいと思ったのかは分からない。どこで売っているのか、どの香水なのかすら、知らないのに。
ため息を吐いて、家路に入る。
もうすぐ家に着く。
ドアを空ける寸前。風が吹いた。
あの香水と同じ、香りがした。
「言葉はいらない、ただ・・・」
まるで、夢の世界だった。
どこまでも澄み渡った空に、柔らかそうな白い曇。
太陽は雲の影を蹴散らすように、照り輝いている。
その下には、何十階とあるビルが夥しく並び、そのすそには家が何軒もたっている。
全く変わらない、情景。空と広がった世界が麓に見える。普通の人からすれば、いつも通りの、景色。
──音が聞こえないことを除けば。
僕には、耳に障害がある。
生まれつきだ。そのため、音も聞こえないし、しゃべれもしない。
耳にある、外耳という器官に、膜が張られ、鼓膜まで、音が届かないらしい。
不思議なもので、僕の行った病院では、「今までない症例かもしれない」と告げられた。
だから生まれてから一度も、自分の声、そして世界の音を、聞いたことはなかった。
ただ、音が闇に飲み込まれなような、黒い静寂が、いつも張り付いていた。
手術をする、という手はあった。だが、いくつか問題が生じた。
まず、この膜はなにか、ということだ。
いつ、どういった経緯で生まれたのか分からず、切り取っていいものかも分からないらしい。
次に、執り行った場合、耳にはいる情報量、音量に耐えきれるか、ということ。
僕の場合、耳が膜に阻害されているせいで、音は全くと言っていいほど聞こえない。
聴覚障害の人で、治りやすいのは、まだ少しでも耳が聞こえている人。だから、急に来た情報量、音量に耐えることもできるし、慣れることもできる。
ただ僕は、そういった都合が一切効かないため、執り行いが配慮という名で、躊躇われた。
また、膜を切り出した場合、その膜が再生するかも分かっていない。
そのため、手術を執り行う人がおらず、手術は難航した。
そんなとき、急に手術を執り行う日が来た。僕の誕生日、の次の日。明日。
突然的に決まったことで驚いた。訊いてみれば、親類らが、誕生日プレゼントとして予定していたものらしい。
いわば、サプライズ。
ただ、僕の気持ちは配慮してくれなかったらしい。
だが、目に見えた不安のなかには、「音を聴きたい」という、小さな愉しみがあった。
夜。君が来た。
『手術、できるって』
そう伝えると、とても、嬉しそうで、楽しそうだった。
でも突然、はっと、なにかに気づいたかのように、目を伏せる。
そんな表情を見て、なにか、不安になった。
ずっと笑顔だった君。
『頑張って』 そう君が書いた紙に、言葉に何度救われたか。
入院していたときにだって、会いに来てくれたことで、どれだけの不安が、鳴り収まったか。
なのに。
なんでそんな顔をするんだろう。
そう紙に書くと、驚いたように、君は目を見開いた。
『だってこういう風に、紙に書くことがなくなるんだって思うと。』
書いた紙を見せつけると、君は笑った。悲しみ、苦味を押し付けたような笑みだった。
苦しくなった。急に、手術をするのが嫌になった。
手術なんかよりも、君の笑顔の方が見たかった。声よりも、紙に書かれた言葉の方が良かった。
言葉はいらない。声も、手術もいらない。
ただ。
『君と、こうやって話したい』
「突然の君の訪問。」
心臓が、止まると思った。
息をしているかどうか分からなくても、鼓動の音は消えてなくなったように、静まった。
いつも通りの、暑い朝。
買い物に行こうと、席を立つ。
家を出て、眩しい日向へと入る。
早朝だというのに、道路には車が夥しく並び、人が込み合うように立ちはだかる。
少し、人を押し退けるようにして、店に入った。適当にものを眺め、選ぶを繰り返す。
もう、夏も終わりだ。日差しは真っ直ぐ、僕の方を向いて落ちてくるような季節。なにもできない季節。
どうして、こんなにも早く月日はたつのだろうな。そんなことを考えながら店を出た。
まだ、僕は君になにもできていないのに。
人通りの多い表通りを歩き、裏通りに差し掛かる。
やはり、人気は少ない方が、楽だ。君と同じように。
そのまま家に直で向かう。古びたドアを空ける。なにもない部屋に入り、なにもないのに断捨離をする。
ボーとしたまま、手だけを動かしていると、不意に、音の外れた「ピーンポーン」という音が届いた。
宅配便かなにかだろう。適当に、ボーッとした頭のまま、ドアに手を掛ける。
「はい」
顔を上げる。
そして、その格好のまま、束の間、僕の中で、全ての時間が止まった。
僕の目の前には、君がいた。
紛れもない君だった。
体つきや顔は少し痩せこけているけれども、それは、正真正銘の君だった。
体が、完全に固まった。
心臓が、血液が、止まった感覚。
体温が零度まで冷やされるような驚き。
なんでここに君がいるの?
なんで突然会いに来てくれたの?
そんな言葉も、出た、はずだった。
僕は君を見て、驚きすぎたのか、一つの声もでなくなっていた。
目線は合わせることができず、君の首から胸をさ迷う。
そんな僕に、君はあの、いつも通りの笑顔で。
ニコッと「会いたかったの」そう、微笑んだ。