柔らかい雨
ヤバい、降りそう。
空がどんどん薄暗くなっていくのを電車の窓から見ていた。最寄り駅の改札を急いで抜けて、外に出る頃にはすでに道路が濡れていた。
「あぁ〜、降ってきちゃった……」
一人言を呟いてしまう。傘は持ってない。周りには私と同じように空を見上げている人が何人かいる。
小雨だし、マンションまで歩いて5分。走れば、と一歩踏み出しかけた時、黒い傘を差した彼が足早にこちらに歩いてくるのが見えた。嬉しくて大きく手を振る。
彼は私を見つけると、手を振り返す代わりに傘を上下に少し揺らした。
「迎えに来てくれたんだ、ありがとう」
歩く速さを緩めて近づいてきた彼にそう言うと、
「この電車に乗るって、LINEくれてたから……」
微妙に外した返事が返ってくる。
「でも、ごめんな」
「何が?」
「傘これしかない。急いでてそっちの傘持ってくるの忘れた。だから入って」
「そっか。ふふ、相合い傘なんて久しぶりだね」
大きな傘だけど、大柄な彼と二人ならギリギリだった。なるべくくっついて歩き始めると彼はこちらに傘を傾けてくれる。彼の肩に雨粒がポツポツと落ちている。
「こっちは大丈夫」
私は彼が持ってくれている傘の柄を真っ直ぐに戻す。
「こっちも大丈夫」
彼はまた私の方に傘を傾けた。彼の顔を見上げると、彼は少し笑って視線を前に向けた。
生活の中でしばしば示してくれる、彼のこういう親切さがとても好きだ。
私は黙って両手で彼の手を包むと、そのまま少しだけ傘の柄を彼の方に戻した。
「それで今日はね……」
手を離すとさっき途切れた話の続きを始める。家まで5分のランデヴー。柔らかい雨が包むように降っている。
#80
一筋の光
あなたのひっそりとした優しさは、
深い穴の底へ届く一筋の光のようだった。
その光を両の手のひらで掬い上げれば、
手のひらは光で満たされて、暖かさが手から全身に伝わっていく。
強い光だけを見つめていれば、気づかなかっただろう。
でも確かに光はここにあって。
#79
哀愁をそそる
白い犬が仕事に行く飼い主さんを見つめている。
遠くなる背中を一心に見送っている。
飼い主さんが大好きなんだね。
わかるよ。
もっと撫でてもらいたいし、本当は今すぐ追いかけたいんだろうなあ。
でも飼い主さんが困るから、そう躾をされているから、じっと動かずに耐えている。
行かないでって言いたいけど言えない。
好きとか寂しさとか我慢とか、きっといろんな想いを抱えている、物哀しいようなそんな犬の背中。
#78
鏡の中の自分
こんな顔だったっけ?
もう少しマシだったような気がする、と鏡を覗き込んで軽くショックを受けた。
このところ自分の顔さえあまり見ていなかったみたいだ。化粧をしていても必要なパーツを義務的に目に映しているだけ。視力がさらに落ちて、しかもコンタクトを付けなくなったのが理由としては大きいのかもしれないけれど。
鏡の前に立つとき、前は精一杯よく見えるようにしていたのに、最近はそれさえしなくなっていたことに気づく。久しぶりに笑顔を作ろうとすると顔が強張っているような気がした。
顔も筋肉っていうもんねぇ……
人差し指と中指、そして薬指を揃えた指先で、頬を軽くマッサージしてみる。
自意識過剰気味の若い頃が良いわけではないけれど、今の無関心さはちょっと自分が可哀想かもね。
まだこの顔とつき合っていくんだから。
もう一度口角を上げてみると、鏡の中の自分はぎこちないけれど、さっきよりはずっと上手に笑えていた。
#77
眠りにつく前に
眠りにつく前には、いいことだけを考えるの。
今日の楽しいおしゃべり、
美味しく作れたご飯、
明日はあなたに会えること。
会えないときでも、あなたを思えばいつの間にか幸せな気分で眠りに落ちている。
まるで眠る前のおまじないみたいね。
それではお休みなさい。どうかよい夢を。
#76