スランプななめくじ

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1/15/2024, 7:43:21 PM

小さい頃から、人との関わりが苦手だった。
家族は私が歩くようになってから、放置した。
友達の居ない幼児は、ただ絵本を捲るだけ。
喧騒が鳴り響く部屋の隅で、静かに頁を進めた。

大きくなると、読み物は絵本から小説へ。
挿絵もないまっさらな文から世界観を想像した。
情景などの描写から、主人公の心情を読み取った。
もはや人間として、私として生きている時間よりも、
本の世界に没入している時間の方が長かっただろう。

現実世界の私は、社会からとうに弾かれていた。

私の世界は本の世界なのだ。
本の中に私は居ない。故に傷付けられることは無い。
本の中に私は存在していない。故に責任や苦悩もない。

次第に既存の小説では飽き足らず、自作に手を出した。
創作。ただの妄想が創造になる瞬間、
私は初めて私としての生を実感した。

自分で世界観を練り、登場人物を作る。
思い通りに出来る自分だけの世界。
ずっと浸っていたい。この世界は私のもの。

弱々しい灯りが頼りなく照らす部屋の中、
ドアの向こう側から叫ぶ女の声など耳に入らなかった。
物が割れる音も、男の怒鳴り声も、聞こえなかった。
食事だって、睡眠だって、私の世界には必要ない。




この世界は、誰にも邪魔されたくない。
この世界だけは、誰にも壊されたくない。

1/14/2024, 11:07:50 AM

誰かの悲鳴が鼓膜を劈く。

「どうして」

その後の言葉は喉に突っかかって出てこなかった。
たとえ出てきていたとしても、
この問いに返答なんてありはしないが。
ただ、吐き出したかった。言わずにはいられなかった。
それすらも出来ないのかと、嘲る事しか出来なかった。

どうして、私を突き飛ばしたの。
どうして、私に笑顔を見せたの。
どうして、目を見てくれないの。

どうして、私を庇ってしまったの。



感謝の言葉なんて言えない。謝罪だって出てこない。
ただひたすらに、疑問と怒りが込み上げる。
真っ赤に染ってゆく君の身体が網膜に焼き付く。
もう二度と合わない視線が、酷く冷たかった。



どうして、死んでしまったの。
告白の返事を、伝えたかったのに。

1/13/2024, 2:38:25 PM

ずっと夢を見ていたい。

人生で何度願ったことか。
現実という地獄はいつも私を追い詰める。
失敗の許されない課題。
間違えたら孤立する人間関係。
時間という概念にすら追われてしまう。
睡眠時間もろくに取れない日々が続くと、
つい、願ってしまうのだ。

夢はいつでも自分の味方でいてくれる。
お金持ちになる夢。
嫌いな先輩を蹴飛ばす夢。
好きな人とデートする夢。
魔法だって使えてしまう。
逃げ道のない私にとって、
まさに夢は天国そのものだった。

ずっと見ていられたら、どんなに幸せだろう。



ピピッと、世界で1番嫌いな音が鳴る。
今日も地獄へ連れ戻されてしまった。
学校なんて行きたくなどない。
将来なんて見えやしない。
夢なんてないから、やる気もない。
そんな私を嘲笑うように、職業体験が始まる。

適当に選んだパン屋さん。心底後悔した。
朝は早い、肉体労働、厳しい叱責。
店長の鋭い視線と舌足らずな暴言が刺さりに刺さる。
やってられない、パンの匂いで嘔吐きそうになった。

ついにやってきた開店時間。
看板を立てる役目は、私だった。
板を持ち外に出ると、
待っていた常連らしき客が並んでいた。

「おっ、やっと開くか」

寒空の中、腕をさすり独り言ちていた。
そんな寒い思いをしてまで、
ここのパンが食べたかったのだろうか。
近くにはコンビニ店だってある。
品揃えこそ劣るが、味は申し分ないだろう。
何故わざわざパン屋に来るのか、わからなかった。

「いらっしゃいませ」

マニュアル通りに、大きな声に笑顔を乗せて挨拶する。
間違えてはいけない。それだけを頭に入れていた。


「おすすめはありますか?」

「焼きたてのカレーパンがおすすめです」

教えられた定型文がすっかり口に馴染む。
食べたことも無いパンを勧めることに抵抗などない。
板に付いてきたパン屋の業務。
叱責も失敗も、初日より減っていた。
それでもふとした瞬間に、考えてしまう。
辞めたいと、逃げ出したいと願ってしまう。
睡眠時間は、削れていく一方だった。



ある日、あからさまに体調が悪かった。
頭が重く、足が動きにくい。腕は他人の物のようだ。
それでも行かなくては、体験と言っても仕事は仕事。
休むなんて選択肢は、頭になかった。

当然上手くいくわけがなく。
小麦粉を撒き散らし、パンの焼き加減を間違えた。
レジ打ちでは料金を見間違え、挨拶も儘ならなかった。
絶対に怒られる。打たれるかもしれない。
それでも謝らなくては。私が全て悪いから。

「本当にごめんなさい」

言い訳なんてしない。全部私が悪いから。
体調が悪いなんて、免罪符にもならない。
仕事を失敗すると言うのは、そういうことだろう。
頭を上げられない。店長の顔が見れない。

「顔を上げろ」

やはり頬を打たれるのだろうかと覚悟し、
言われた通り視線を上げる。
しかし思っていたような衝撃も叱責もなく。

「反省はよく伝わった。初心者には失敗が付き物だ。」

と、笑い飛ばした。

「賄いの時間だろう。とびきりのパン、焼いてやる。」

とびきりのメロンパンが私の心をふんわりと包み込む。
店長の優しさが身に染みて、
柄にもなく声を出して泣いてしまった。

黄昏時、子連れの親子がパン屋に訪れた。

「おすすめはなんでしょう」

子供の手を握りながらお母さんが聞きに来た。

「とびっきり甘くて美味しいメロンパンです」

子供の嬉しそうな声が店に響いた。



職業体験も最終日。
色々あったけど、確かに充実していた。
睡眠を惜しむほど、パンについて考えた日もあった。

ずっと失敗は許されないと、
間違いは正せないと思っていた。
そんな価値観が崩れるほどに、濃く鮮烈な日々だった。
まだ将来なんてよく見えないけど、
進みたい道は定まったような気がした。

順風満帆で全てが上手くいく夢よりも、
波乱万丈で先の見えない人生の方が楽しいと気付けた。

将来の夢は何にしようか。
確かにパン屋はいいけど、肉体労働がしんどかった。
もう少し楽な仕事はないか、なんて。
未だに楽な方へ逃げようとする自分に呆れもするが。

それでも譲れない確固とした意思はある。

苦しい時に寄り添えるような優しい食べ物を作りたい。
慰めるでも励ますでもなく、包み込むような優しさを。

そう思うだけで、地獄から抜け出せたようだった。
夢を見るってこんなに素敵な事だったのかと、
今まで知らなかった自分を悔やんだ。



ずっと夢を見ていたい。
寝て眺める夢じゃなく、起きて望む夢を。