喜びと、悲しみと、怒りと、一人ぼっちの寂しさと、
全てを乗り越えて、今俺はこの場所に立っている。
「三千二百円になりまーす」
「次は…玉だ」
鳴り響く着信をそっと消し、俺は再び戦場へと舞い戻る。
「今年の冬は一緒にホタテを食べたいな。君と」
そう言いながら男は私の前で跪くと、目の前で小さな箱をパカっと、まるでホタテの貝殻みたいに開いてみせる。
「えっ」
箱の中には大きな真珠のついた指輪が一つ。
おいおい…まさかとは思うが、これは_______
「僕と、結婚してください」
夕暮れの公園で、日課のランニングをしていた私は、突如人生最悪のハプニングに出会してしまう。
なんということだ。まさか人生初のプロポーズをこんな悲惨な形で迎えてしまうことになるなんて…。
今、目の前でしたり顔で跪いているこの男は恐らく、先日隣町のスーパーで、私が半額のホタテを譲った男だ。
男はあの時と同じ色褪せた汚いジーパンと、同じく色褪せて汚いパーカーを着ていた。
「この真珠は、あの時君に譲って貰ったホタテの中に入っていたんだ」
そんな訳あるか。
仮に真実だとしても、そんな物を婚姻指輪に使うな。
たかだか半額のホタテ如きで、ここまでの事をしてくる男の行動力と哀れさには恐れ入ったが、そのエネルギーをほんの少しでいいから、こんなクソみたいなプロポーズをされる私の気持ちに当てて貰いたかった。
それに今ここで断っても、何となくだが、今後もこの男はめげずに何度もプロポーズを仕掛けてくるような気がしてならない。
ならば、私もここで一発何か仕掛けなければ、後に取り返しのつかない事態を招く可能性がある。
そして私は、なるだけ最大限の笑顔を作り、男へ視線を向けた。
「ありがとうございます。気持ちは嬉しいんですけど…実はあの時、貴方にホタテを譲ったのは、別のものが食べたくなったからなんです。それは…」
「ヒキ肉でーーす!」
男はぽかんと口を開き、しばらくすると何処かへ去っていった。
何てことはない、
ただ、とりとめのない話をするだけの行為が、
対人関係を構築する上で結構大切だったりすることを、
もう少し早く知っていれば、また違った青春時代を送れたのかもしれない。
「土曜の夜、イルミネーション見に行こうよ」
「理由は?」
「…まあ、特に深い理由は無いんだけど、コロナも開けたし、去年より屋台が多いかなと思って___奢るからさ、どう?」
「外、寒いから嫌」
とかいいながらも、結局2人でイルミを見に行って、
結局、誘った俺よりも楽しんでくれている。
やはり今年も行くのが正解であったと、
ほっと胸を撫で下ろした。
『愛を注いで』
街道の隅に、美しい女性が立っていた。
女性は透明なグラスを両手で抱え、それを少しはだけた胸元まで運ぶと、こう呟く。
「私に愛を注いでくれませんか」
その時、たまたま通りかかった酔っ払いが彼女の顔を覗き込む。
酔っ払いは気持ちの悪い笑みを浮かべると、いやらしく鼻元を伸ばし、グラスに並々と札束を満たしていった。
「ありがとうございます」
女性はにっこり微笑むと、札束をポケットに詰め込んで、酔っ払いを置いて1人で何処かへ去っていった。
その様子を遠くから眺めていた自分は、こんなに簡単にお金を稼ぐ方法があるのかと感銘を受け、翌日、早速これを実践することにした。
「私に愛を注いでくれませんか」
空っぽのグラスに並々と愛を注いでくれる紳士を求め、昨日女性が立っていた街道へと足を運ぶ。
しばらくすると、通りかかった酔っ払いが、うすら笑みを浮かべながらこちらへ歩いてくる。
アルコールの匂いを漂わせ、酔っ払いは顔をぐいと近づけると、空っぽのグラスへと視線を落とす。
「おろろろろろろ」
そして、空っぽだった俺のグラスはあっという間に満たされたのだった。