遠い日の記憶______。
2人の看守に引っ張られ、1人の老男が狭い通路を歩いていた。
しばらく進むと、小さな檻が幾つか並んだ部屋に辿り着く。
老男はほんのり抵抗を試みたものの、若い看守2人に敵うはずもなく、あっという間に檻の中に閉じ込められてしまった。
檻の向こうで、酷くこちらを睨みつける看守たちと目があう。
老男は誰にも聞こえぬほど小さく息を吐くと、看守に背を向け、痛めた右足を庇いながら、ゆっくり腰を下ろして正座を取った。
これで文句は無いだろうと看守を一瞥すると、やがて看守達はどこかへ行ってしまった。
さて、今日から三十日間、長い懲罰が始まる。
懲罰の間は、就寝と食事以外、朝から晩までひたすら壁を向き正座をしなければならない。
考えるだけで、退屈で気が狂ってしまいそうになる。
幸いにも老男には今まで生きてきた六十数年の人生があった。
思い出せる限り遠い日の記憶から、ゆっくりと振り返っていくとしよう。
『これで、終わりにしよう』
心の中で呟きながら、一本のタバコを口に咥えた。
カチ、カチッ。
ライターの火を灯し、ゆっくりと咥えた先へと運んでいく。
手を取り合って、何かをする。
昔から協調性が無くて、団体競技とかパーティとか大人数で行う行事が苦手だった。
自分は周りの人とは何処か違うんだろうなと思って、それを自分の「個性」だと信じていた。
しかし、生きていく上では何かと他人と関わる場面は多い。
何人かと協力することも多々あったのだが、その度に思うのは自分は周囲に手を引っ張って「もらっている」という感覚だった。
最近になってようやく、自身の協調性の無さは「個性」ではなく「未熟」さから来ているのではないかと気づいてしまった。
まだまだ、自分には誰かと手を取り合えるなんて先の先のステージなのかも知れない。
優越感に浸れるのは人と自分を比べる時
劣等感に苦しむのも人と自分を比べる時
そんな感情に支配されず、ただただ自分の物差しを広げていく。
そんな人生を歩んでいきたい。
これまでずっと生きてきた。
人生は楽しさよりも辛さが重くのしかかる。
その辛さを凌ぐため、
ある人は誰かのせいにして、
ある人は誰かに擦りつけ、
ある人はそれを暴力的に発散する。
生きてるだけで十分だとか、百点満点だとか、いいことあるとか、そんな類の無責任な言葉が大嫌いだ。
そんな言葉は言った側の自己満足でしかない。
とさえ思ってしまう。
十分であるならば、
こんなにも自ら命を絶つ者がいる筈がないだろう。
今まさに生きるのが辛い人間に、
それでもまだとりあえず生きろというのか。
具体的に十分と言える生き方を提示してくれ。
え?
そんなものは人それぞれだって?
だったらそんないい加減なことは言わないでほしい。