自転車に乗って坂を下る。
生温い風が頬を勢い良く撫で、前髪がバサバサと乱れる。
汗が背中や首を伝うが、それすら愛しい。
一つ、大きな赤い屋根の家が見えてくる。その奥には海が、自由が広がっていた。
潮騒と海の匂いを全身に感じながら、自転車を止める。
その家に入る前に、庭の柵に身を乗り出して息を思い切り吸った。
少し酸っぱい、夏の香り。
晴れ渡る青空を少し見つめてから、柵を降りて家の玄関に向かう。
赤い屋根と青い空がよく映える。やはりこの季節は、世界全体が格別だ。見慣れたものでも初めて見るものでも、どんな景色も美しい。
ガチャリと鍵を回す。少し錆のついた、古風な鍵。年代物ではなく、こういうデザインだ。
扉を開く。優しい木の香りがする。
風がそよいで、木が揺れた。
麦わら帽子が飛んでいた。
ひらりひらりと風に舞い、地面に落ちてしまいそうになった瞬間。
小さな手がそれを拾う。
少年は数秒その麦わら帽子を見つめ、持ち主は誰かと周囲を見回した。
小学一年生程度の少年が、美しい青空の下、向日葵畑の近くの無人駅で麦わら帽子を持っている。
傍から見ればなんとも絵になる光景だった。
キョロキョロと周りを探す少年の目に、一人の女が写る。
白の夏らしいワンピースに、麻でできたショルダーバッグを肩にかけている髪の長い女。
夏の似合う美しい女であったが、少年はそんなことよりも帽子の持ち主を見つけられたことに歓喜していた。
周囲に人間は見当たらない。つまり麦わら帽子この人のものだと判断する。現に女は首を回して何かを探す素振りをしていた。
「はい、お姉さん!落としたよ!」
駆け寄って麦わら帽子を届ける少年の笑顔は太陽の如く明るかった。
女は笑顔で帽子を受け取る。
「ありがとう。良い子ね。」
その日、その夏の暑い日。
一人の少年が、女と共に姿を消した。
『鐘の音』
鐘の音が鳴り響いた。
鐘が六つ鳴ると、私達は勢い良く起き上がる。
ベッドから出て、着替えて、準備を済ませて、みんなで朝食を取る。
あの鐘の音は眠っている私達のわくわくを解放して、素晴らしい一日の始まりを告げる。
『明日、もし晴れたら』
明日、もし晴れたら。
俺とあの人は会うことができない。
雨の日だけ会うという約束。梅雨明けの、晴天の明日の天気予報。
流れるニュースをぼうっと見ながら、そんな事を考える。
しばらくは毎日のように会っていた。なのに、明日からは会えない。
遣る瀬無い感情を押し込むように、会えないのが日常なんだと身に思い知らせるように、手にぶらつかせていたビールを煽った。
「…だから、一人でいたい」
彼女に唐突に告げられた言葉。俺はそれを理解できず、聞き返した。
「…どういうこと?今までの話と、それに何の関係が…」
今彼女は本が好きという話を俺にしていた。一方的に話されるだけで、俺は時折相槌をする程度だが。
こいつの話はもう何年も聞いている。新しく買った本、読み返した本、作家、出版社。いくらでも出てきて尽きないこいつの話は、俺にとってどこか精神安定剤のような部分であることも認める。
その話を十分以上続けたところで、彼女は言った。一人でいたいと。
「…今、お前の好きな作家の本話してなかったか?何で急に一人の話になるんだよ。俺が聞いてることとお前の言ってること違うかったりする?」
「ううん。私は今確かに京極夏彦の話してたよ。でも、急に思い立ったから言ったの。」
変だ。今さっき、中禅寺秋彦の解説がわかりやすくてだの何だの言っていたところだったというのに。思い立ったというだけで、話がここまで曲がるだろうか。
「…一人にしようか?」
「そうじゃないの。…一人の世界に行きたいって。」
一人でいたいとは全然意味が違うじゃねえか、と心のなかで悪態をつきつつ会話を進める。
「一人の世界って?」
「どんな場所でもいいけど、私以外の人がいない世界。私は一人で…本を読みたい。」
その言葉を聞いて、無性に胸が苦しくなる。それが寂しさだと気づくのに数秒かかった。
俺はいつからこいつの話をこんなにも求めていた?
「……お前は、読んだ本の感想…誰かに言わなくて平気な性格だったかよ」
素直になれない。お前の話を聞いていたいと言うだけでいいのに俺の心は飛車げて曲がってるから、その本意が伝わらない。何度も経験してきたことのはずなのに、俺はやっぱり曲がったままだ。
「………そうかもね。じゃあ、私と君以外が居ない世界…二人の世界がいい」
俺は変に生暖かい気分になり、カップに入ったコーヒーを啜った。
「二人でいたいね。」
俺と、こいつ。二人の世界。
ずっと二人で、本の話をする。こいつの話を聞いて、穏やかな気持ちになれる。
考えてみればそれは理想的で、同時に、来ることのない願望なんだと理解する。
外を見る。雨の伝う窓越しに、夕日が沈む。
「……毎日、死んだら、一人になれるかなって考えてたの。」
黄昏時。薄い陽の光が俺達を包み込んで、二度と来ない時間を生み出す。
何故か、そんな事を考えたことなど一度もないはずなのに、すっと言葉が出た。
「………じゃあ二人で死ねば、ずっと二人になれるな。」
目を見開く。陽が落ちる。暗くなる。
完全にその陽が消える一瞬に、こいつは確かに言った。
俺にしか聞こえない声で。俺にしか心から理解できない言葉を。
「…二人になろう。」