宮川翔吾には、流れ星に願い事をするという、そんな趣深いことをする感性はない。
ないにはないが、流れ星に願い事をする人間はいると思っている。ただ自分がしないだけで大半の人間はするだろう。そう思っていた。
だから急に夜中に天体観測をしようと半強引に連れていかれ、流れ星が流れた瞬間に、金が欲しいと情緒もへったくれもなく願いを、隣で星を眺めていた高宮早苗が叫び出したことは、ちっとも変だとは思わなかった。ただ、情緒がねえなとは思ったが。
「もっと他に願いはねえのかよ」
「ないな。残念ながら。なんて言ったって、金は全てを解決する。これは真理だからだ!」
今自分は天体望遠鏡が欲しい。あと一人暮らしがしたい。漫画が買いたい。これらを解決するのは全て金だ。金がいる。金が欲しい。そんな色気もへったくれもない話を早苗はする。まあ確かに、欲しいものが金で解決するものなら金が欲しいか。しかも自分たちはまだ高校生でバイトで、金を貯めたとしても微々たるもので、欲しいものがたくさん買えるかと言われたら微妙なところはある。そういう点ではある意味、高校生らしい願い事なのかもしれない。
「ところで、ショーゴくんは何か願い事をする気はないのかい?」
ほらほら、早くいいたまえ。満点の星が瞬く中を、一筋、流れ星が通り過ぎた。数秒後にはまた一つ、チカ、と光る。
そういえば今夜は流星群だとかニュースで言っていたな。だから早苗は天体観測をしようと言い出したのだろう。今更気がついた。
ただ、急に願い事はないかと言われても困る。願い事だなんて、そんなものはない。そんな趣深い感性はない。
そもそも、願いは自分で叶えるものだ。誰かに願って叶えてもらうものではなく。
「んなもんねえよ。自分で叶える」
だから翔吾は早苗にそう言った。そういうと、早苗は一度大きく目を見開いた後、すぐに悔しそうな顔をした。
「……やられたな」
「何が」
「自分もそうすりゃ良かった〜!」
真夜中の空。満点の星。いくつもの光の筋が流れる下。
早苗の心底悔しそうに叫ぶ声を隣で耳にしたのだった。
憂鬱、と誰かがぼそっと呟いた。声の聞こえた方を見れば、友人の高宮早苗(たかみや さなえ)が口を尖らせている顔が見えた。
手にはぶらぶらと、箒の柄の方についた紐を実につまらんと言った様子で左右に振って弄んでいる。何なら足も貧乏ゆすりをしてカタカタと上下に動かしている。宮川翔吾は鬱陶しいなあと思いながら、その様子を見守っていた。
「憂鬱、退屈、鬱屈だ。一つも楽しいことがない。なあショーゴ、何か俺に面白いものを見せてくれ」
「ねえよ。空でも見てろ」
そう言って窓の外に指をさしておいた。窓の外はからりと晴れて雲ひとつない青空がひろがっている。開け放たれた窓からは新緑の匂いと土の匂い、それから若干湿ったやわらかい風が入り込んできていた。
「ひどい男だな君は。ボクがこんなに面白いことを切望していると言うのに、なぜ君は空でも見ていろと言うんだい?」
そこは君が面白いことをするところだろう。早苗は急に立ち上がると翔吾に箒を向けた。「箒を人に向けるんじゃねえ」ととりあえず翔吾は言った。
「空だって見てりゃ面白いことあるだろ。そもそも、お前の心がつまんねえ時は俺が何をしてもつまんねえって言うだろ」
「む。それは確かに」
そう言うと早苗は黙り込んで空を見上げた。顎に手を当てて何か考えているような格好をする。翔吾は単純でいいよなと早苗の様子を横目に教室の床を箒ではいた。毎日掃除をしているはずなのに床には埃とケシカスと髪の毛がそれなりに落ちている。
「ふむ。じゃあ、空でも見ていよう。そうだな。そういえば春の空と冬の空は何か違うと思わないか? 例えばそうだな。色だな。色が違う」
どうも今日の早苗は誰かにかまってほしい日らしい。普段は黙ったら構ってほしくない限り、早苗は何も話さない。だが口を開いて独り言のように話をし始めるということは、早苗なりの構ってほしい合図なのだろう。
だが翔吾も掃除で忙しいので視線はあまり早苗に向ける気にはなれないのだが。
「青は青だろ」
「風流がないやつだなあ。君の方が空を見た方がいいんじゃないか? ほら、よく見てみろ。冬の空は青色が強い。けれど春の空は菫色に近い。いや、赤みが勝ってくると言った方がいいのか?」
急にぐい、と袖を引っ張られて窓の近くまで連れて来られる。掃除してんだけどと文句を言うと、そんなものは後でいいとか言い出した。いやよくねえよと言ったがきく耳を持たない。仕方がないので窓の外を見た。見た通り、青い空がひろがっているだけで赤みがあるとか青が強いとかそう言うのはわからない。
「冬の空とかたいして見てねえから、青いとか赤いとかよくわかんねえよ」
「はー! 空でも見てろって君が言ったんだぞ! だから見たのに、よくわからない? おいおいショーゴくんしっかりしてくれたまえ」
ゆっさゆっさと思いっきし体を左右に振られる。今なんか箒が左右にぶらぶら振られた時の気持ちが分かったような気がした。
「もういい。外に出て君のその目でもわかるように説明してやる」
「掃除はいいのかよ」
「そんなものやめだやめ。私を止められると思うなよ!」
そう言って早々に飛び出していく早苗。翔吾はため息をつくと、ちりとりでゴミを集めて、端に寄せていた机と椅子を手早く元の位置に直した。そうしていると廊下の方からバタバタと走る音が聞こえてきて、勢いよく開いていた扉に体当たりをかましながら、派手に音を立てて早苗が帰ってきた。
「早くしろ! 私の気は短いんだぞ!」
なんて言ったって、女心と秋の空だからな。そう言って腹を立てたように言いながら翔吾の手を取って早苗はまた歩き出した。
こいつの心模様は、今日も忙しいなあ。と、翔吾はそんなことを思っていた。
あいつは必ず、俺に向かって「背中に触れてくれ」という。
そう言われて背中に触れる。服越しから手を当てているのに、骨の形がはっきりと伝わってくる。その骨も折れそうなほど細い。体温も低い。いつ死んでしまってもおかしくない、枯れ木のような頼りない背中。
その背中に触れるたび、いつも「明日死ぬかもな」と想像してしまう。明日にはもう触れることができないかも思ってしまう。気分が悪い。
そもそも人の手が触れること自体、今のあいつには堪えるはずなんだ。死にゆく人間は生きている人間の刺激に弱い。耐えられない。本当は声を聞くのも、衣服に触れられるのも辛い。誰かが自分の背中に触れるだなんてまっぴらごめんだ。あついし、骨が立って痛む。いつだったかあいつがそう言っていた。
それなのに、あいつは俺に触れるようにとせがむ。背中に手を置いて欲しいという。
「君が自分の背中に触れてきた時、じんわりと触れてもらったところから、あたたかくなるのが好きだ。自分の身を案じてそっと大事に触れてくるところが好きだ。それだけで、自分は生きていてよかったと思えるよ」
あいつの肩から力が抜ける。ふっと、どこかへ消えていくような力ない後ろ姿が見えた。
「たとえ、これが生きるためには間違いであったとしても、明日死んでしまったとしても、それでいい。それがいいんだ」
あいつは勝手なやつだと思う。
抱きとめられず、添えるしかできない、それ以上はいけないと思っている俺の気持ちなんかちっとも知らないで、この世の誰よりも幸せなんだとあいつは小さく笑うのだから。